南アルプスの内側に隠れた、日本第二の山
北岳は標高3,193m、山梨県南アルプス市にそびえる南アルプス(赤石山脈)北部の主峰だ。富士山に次ぐ日本第二の高峰でありながら、富士のように街から仰ぎ見ることはほとんどできない。山域の奥深くに座しているため、麓から姿を捉えるには甲府盆地の北側に回り込むか、夜叉神峠まで上がる必要がある。深田久弥は『日本百名山』でこの山を「日本第二の高峰でありながら、世にあまり知られていない」と評した。南アルプス国立公園の核心部に位置し、間ノ岳(3,190m)、農鳥岳(3,026m)と並んで「白根三山」と総称される。
山頂直下には、固有種キタダケソウが咲く石灰岩混じりの稜線がある。世界でこの山域にしか自生しない植物で、6月下旬から7月上旬の短い開花期に、北岳の稜線をわずかに白く彩る。北岳という山は、日本第二の高さを誇りながら、その魅力は標高の数字よりも、固有植物相と東面のバットレス、そして稜線でつながる白根三山の縦走線にこそある。
草すべりか、大樺沢か。広河原から二本の道
北岳ルートの登山口は、ほぼ広河原(標高1,520m)の一点に集約される。広河原から山頂に至る道は大きく二本ある。一つが草すべりルートで、白根御池小屋を経由して急峻な草付きの斜面を一気に標高2,800mまで詰める。距離は短いが標高差が大きく、樹林帯を抜けた後の草すべりの登りは北岳登山の最初の関門になる。もう一本が大樺沢(おおかんばさわ)ルートで、沢沿いを二俣まで遡り、そこから八本歯のコル経由で北岳山荘の稜線に出る。沢の雪渓と北岳バットレスの威容を間近に見ながら登る、視覚的に最も劇的なルートだ。
標準的な登山スケジュールは、初日に広河原から白根御池小屋または北岳肩の小屋まで上がって一泊、二日目に北岳山頂を踏んで広河原に下る一泊二日。健脚であれば日帰りも理論上は可能だが、標高差1,700mを単日で往復することになり、現実的には推奨されない。間ノ岳までを含めた白根三山縦走を組むなら、北岳山荘または農鳥小屋に泊まる二泊三日の行程が基本になる。なお大樺沢ルートは年により土砂崩落や雪渓崩壊で通行止めが発生するため、出発前に南アルプス市・芦安ファンクラブの最新情報を確認しておきたい。
白根三山、稜線でつながる三千の連なり
北岳から南へ稜線をたどると、間ノ岳、農鳥岳が並ぶ。これが白根三山と呼ばれる南アルプス北部の主稜線で、三座すべてが3,000mを超える。間ノ岳は2014年の改測で標高が3,190mに修正され、奥穂高岳と並ぶ日本第三位の高峰となった。北岳から間ノ岳への稜線は、両側に深い谷を落とすたおやかな草付きの道で、日本国内で最も長く3,000mを超え続ける稜線として知られる。
白根三山縦走は、広河原から北岳に登り、北岳山荘で一泊、間ノ岳・農鳥岳を踏んで奈良田に下る二泊三日が定番。下山口の奈良田は秘湯としても知られ、奈良田温泉で汗を流して帰る登山者が多い。距離・標高ともに南アルプス縦走の入門編であり、北アルプスの表銀座が「岩稜の縦走」だとすれば、白根三山は「広大な草付き稜線の縦走」と性格が分かれる。北岳の登山は、ピストンで終えるか、稜線を南に繋ぐかで、得られる体験がまったく変わる。
東壁の岩、北岳バットレスという別の山
北岳の東面には、標高差600m近い大岩壁・北岳バットレスがそびえる。一般登山道とは別世界で、ロック・クライミングの対象として戦前から拓かれてきた歴史を持つ。第四尾根、Dガリー大滝、ピラミッドフェースなど多くの古典ルートが集中し、現在も国内アルパインクライミングのフィールドとして使われている。一般登山者がバットレスを登ることはないが、大樺沢ルートを登ると、二俣を過ぎたあたりから左手に巨大な岩壁が立ち上がり、自分が登る尾根とは別の北岳の顔を見上げることになる。
なお北岳バットレスでは過去に重大な落石・墜落事故が複数発生しており、近年は第四尾根の取付き付近で大規模な崩落も報告されている。一般登山道を歩く分にはバットレスの直下を通過することはないが、大樺沢の二俣付近で休憩する際は上部からの落石に十分注意したい。岩壁の存在は、北岳という山が単なる「日本第二の高峰」ではなく、複数の登り方を許容する大きな山であることを思い出させてくれる。
キタダケソウ、6月末の短い開花期
北岳の山頂直下、標高3,000m前後の稜線には、キンポウゲ科の固有種・キタダケソウが咲く。世界でこの山域だけに自生する植物で、開花期は6月下旬から7月初旬のごくわずか数週間に限られる。この時期はまだ稜線に雪が残り、登山道のコンディションは安定しないが、キタダケソウを目的に登る登山者は毎年一定数いる。同じ時期、ハクサンイチゲ、シナノキンバイ、チョウノスケソウなど高山植物の開花も最盛期を迎え、北岳の稜線はまさに「天空の花畑」と呼ばれる景観になる。
ただし高山植物の踏み荒らしは深刻な問題で、特に山頂部周辺では木道や保護ロープが整備されている。北岳の季節を花で選ぶならば、6月末から7月初旬の梅雨明け直前を狙うことになるが、この時期は天候が不安定で、稜線では低体温症のリスクも高い。装備は7月の北アルプス稜線と同等以上を見込み、防風・防水のレインウェアと予備の保温着を必ず持参したい。
夏の二ヶ月、3,000m稜線の装備
北岳の時期は、無雪期に関しては概ね7月中旬から10月初旬。広河原の山梨交通バスは例年6月下旬から運行開始、11月上旬には冬季閉鎖に入る。8月は山小屋の混雑がピークになり、北岳肩の小屋・北岳山荘ともに完全予約制が定着している。9月下旬から10月初旬にかけては紅葉が見頃を迎え、ダケカンバの黄葉と稜線の青が美しい時期だが、稜線では氷点下に落ちる日もあり、初冬装備に近い備えが求められる。
北岳の服装は3,000m級の長時間行動を前提に組む。夏でも稜線の朝晩は5〜10℃まで下がることがあり、フリースもしくは薄手のダウンと、防風防水のハードシェルは必携。シューズはミッドカット以上の登山靴、ザックは二泊三日分の食料と防寒を背負える40L前後が標準。広河原から白根御池小屋までの草すべりは樹林帯と急登が連続するため、トレッキングポールがあると下りの膝が楽になる。高度順応の余裕がない人は、初日に広河原山荘または白根御池小屋に早めに入り、二日目に山頂を踏む二泊の計画にすると体感的に楽になる。
北岳山荘、肩の小屋、白根御池小屋
北岳周辺の山小屋は、白根三山縦走の骨格そのものになる。北岳山頂のすぐ南、標高2,880mの稜線上に立つ北岳山荘は、白根三山縦走の中継点として最重要の小屋。北岳肩の小屋は山頂直下、標高3,000mに位置し、北岳ピストンの拠点として人気が高い。白根御池小屋は草すべりルートの中継点で、池の畔に立つ瀟洒な造りが知られる。広河原山荘は登山口の宿泊拠点であり、前夜泊や下山後の汗流しに使える。
南アルプスの山小屋は北アルプスに比べて運営体制が小規模で、ピーク時の予約は数週間から数ヶ月前に埋まる。寝具は基本的に共用、食事は時間帯固定の入れ替え制で、消灯時間も早い。寝床と食事を提供する装置と割り切り、行動時間を小屋の食事時刻に合わせて組むと山行が楽になる。なお北岳山荘は2024年に建替えが進み、収容人数や予約方法が変わったため、出発前に南アルプス市公式サイトで最新情報を確認しておきたい。
稜線上の北岳山荘から見るご来光は、東に甲府盆地と富士山、南東に塩見岳、西に仙丈ヶ岳・甲斐駒ヶ岳という、南アルプスならではの構図になる。富士山を朝日の少し横に置いて見るこの角度は、富士山頂や北アルプスからは決して得られない景色で、北岳に泊まる理由のひとつになる。
甲府から広河原へ、シーズン限定の長い一日
北岳のアクセスは、JR中央本線甲府駅から山梨交通バス(または乗合タクシー)で芦安駐車場、夜叉神峠を経て広河原まで約2時間。マイカーの場合は芦安駐車場までで、そこから先は南アルプス林道がマイカー規制となっているため、バスまたは乗合タクシーに乗り換える必要がある。バスは例年6月下旬から11月上旬までの季節運行で、運行期間外は広河原へのアクセス手段が事実上閉ざされる。
首都圏からは新宿駅から特急あずさで甲府まで約1時間半、そこから広河原まで約2時間と、移動だけで半日を要する。前夜に甲府または芦安に入っておくか、新宿発の夜行バスを使えば翌朝から登り始められる。下山後に奈良田温泉や芦安温泉に立ち寄ってから帰路につくと、白根三山縦走の余韻が長く残る。北岳に登るという行為は、富士山のように街から眺めて出かける登山ではなく、南アルプスの内側まで分け入ってから、ようやく対峙する山に向かう登山なのだ。