三つの名を持つ頂
荒川岳は静岡県静岡市葵区と長野県の境に連なる三つの峰の総称である。南から前岳(3,068m)、中岳(3,084m)、そして最高点の東岳(3,141m)。三座をまとめて荒川三山とも呼ぶ。東岳は国土地理院の地形図では「東岳」と記されるが、登山者のあいだでは悪沢岳の名で通ってきた。標高3,141mは日本で六番目に高い。荒川岳という呼称そのものは、前岳が小渋川の支流・荒川の源頭に位置することに由来する。本来は西の谷から見上げて付いた名であり、東の端にある最高点までを荒川岳に含めてよいかは、古くから議論のあるところだった。
深田久弥が『日本百名山』に収めたのは、荒川岳ではなく悪沢岳の名だった。三山の総称ではなく、最も高い一点を指す名を選んだことになる。悪沢は険悪な沢の意で、山から落ちる谷の険しさを土地の猟師がそう呼んだことに由来するとされる。優美さとは無縁の、地形をそのまま言い当てた名である。山頂部には赤いチャートが点在する。赤石山脈という名の由来になった赤い石を、この山の頂で踏むことになる。三等三角点は中岳と千枚岳に置かれ、最高点の東岳にはない。
清水平まで、水の湧く四時間
荒川岳のアクセスは、登山口に立つ前の段階でほぼ決まる。静岡県側の起点は大井川最奥の椹島で、そこへ通じる林道に一般車は入れない。沼平ゲートから歩けば椹島まで片道六時間程度。つまり歩き出す前に一日が消える。現実的な手段はひとつで、畑薙第一ダム先の夏期臨時駐車場まで車で入り、特種東海フォレストの送迎バスに乗り換える。畑薙を7時30分に出れば椹島着は8時40分、約70分の林道である。2026年の運行期間は7月11日から10月12日。9月24日から10月9日までは予約不要の当日乗車で、それ以外の期間は事前予約制になる。乗車は無料だが、条件がある。椹島ロッヂ、千枚小屋、赤石小屋、荒川小屋、百間洞山の家、赤石岳避難小屋のいずれかに素泊まり以上で泊まることが前提で、テント泊だけの行程は対象にならない。
2026年9月時点で、送迎バスの案内ページの最終更新は同年4月30日付である。林道の状況は一年のうちに何度も動く。出発前に運行状況を直接確かめる手順を、この山では省けない。
椹島から荒川岳へ向かうルートは、林道から吊り橋を渡って千枚尾根に取り付く。展望のない樹林帯をひたすら登り、水音が近づいてくるあたりで清水平に出る。こんこんと湧く水場があり、荒川岳の登りのなかで水を当てにできる数少ない地点である。清水平から千枚小屋まではさらに三時間ほど、椹島から千枚小屋までを通しで5時間50分とする資料もある。いずれにせよ初日は、高度だけを稼いで終わる一日になる。
水の話を先にしておく。千枚小屋と荒川小屋にはいずれも水場がある。一方、稜線上の中岳避難小屋には水場がない。荒川三山の核心部を越えるあいだ、水は背負っている分がすべてになる。清水平の湧水が記憶に残るのは、この山の水の細さを最初に教えてくる場所だからでもある。
千枚岳の五メートル、悪沢岳の浮石
千枚小屋から先が、荒川岳登山の本体になる。千枚岳、丸山、悪沢岳、中岳を越えて荒川小屋まで、五時間ほどの稜線歩き。丸山を過ぎると森林限界の上に出て、岩とハイマツだけの世界に変わる。悪沢岳の山頂部は大きな岩が積み重なった一角で、南アルプスの山頂としては珍しく足元が落ち着かない。
このルートの核心は二か所ある。ひとつは千枚岳からの下りに現れる5mほどの垂直な岩壁で、鎖が設置されていないため、三点支持で処理するしかない。もうひとつは悪沢岳から中岳へ向かう下りで、大小の岩が乱立する急坂に浮石が多く、転倒とスリップに注意を要する区間とされる。鎖場と梯子が連続する北アルプス型の難しさではなく、疲れた脚で足場の定まらない斜面を延々と下る難しさである。荒川岳の危険は、この性格のなかにある。
多くの登山者は反時計回りの周回を選ぶ。椹島から千枚尾根で上がり、荒川三山を越え、荒川小屋から赤石岳を踏んで東尾根で椹島へ戻る。日本第六位の悪沢岳と、3,120mの赤石岳を、一本の行程のなかで続けて踏むことになる。中岳から前岳までは五分ほどしか離れていないが、前岳の山頂部は崩壊による浸食が激しく、静岡県の南アルプス公式情報も要注意箇所として名指ししている。
柵に扉がついている理由
中岳から荒川小屋へ下る斜面には、シナノキンバイやハクサンイチゲが埋める南アルプス最大級のお花畑がある。荒川岳には氷河が削った圏谷(カール)が数多く刻まれ、その底と斜面がそのまま花の斜面になっている。まわりを縁取るハイマツ帯はライチョウの生息域でもあり、高山植物と高山鳥が、ひとつの氷河地形のなかに並んで収まっている。
このお花畑は、いま柵に囲われている。環境省によれば、南アルプスでは平成10年ごろから稜線付近に現れるニホンジカが増加し、高山帯の植生が食害を受けてきた。平成21年に対策の連絡会が設けられ、モニタリング調査、捕獲、防鹿柵の設置が進められている。荒川岳では平成23年度から柵の設置が始まり、西カール底と前岳南東斜面の二か所、前岳・中岳の分岐と荒川小屋のあいだに張られている。
このうち前岳南東斜面の柵は、登山道を横断するかたちで設置されている。そのため出入口には扉があり、ドアノブまでついている。環境省の現地報告は、確実に閉めるようにと書き添えている。登山者は自分で開け、通り、閉める。三千メートルの稜線で扉を開閉するという行為のなかに、この山の花が人の手で守られている事実が、そのまま形になって残っている。開けたら閉める。それだけのことが、荒川岳では登山道の一部になっている。
定員五名の稜線
荒川岳の稜線には、定員五名の小屋がある。中岳避難小屋は2026年の開設が7月11日から9月22日の予定で、素泊まり11,000円、幕営不可、水場もない。水は下の小屋で確保して上げる前提になる。三千メートルの稜線に五人だけが泊まり、日没と日の出の両方を稜線の上で迎えられる場所は、この山域にそう多くない。予約が取れるかどうかは、荒川岳の計画のなかで最も運に左右される部分である。
行程の主軸を担うのは千枚小屋と荒川小屋のほうだ。2026年の営業はどちらも7月11日から10月11日の予定で、千枚小屋は定員80名、荒川小屋は定員50名。料金は1泊2食15,000円、素泊まり11,000円。テント場はそれぞれ30張ほどで、幕営料は一人2,000円。ただし前述のとおり、テント泊だけの計画では送迎バスに乗れない。荒川岳の日程は、小屋の予約が取れた日から逆算して組むほかない構造になっている。
七月十一日から、十月十一日まで
荒川岳の季節は、小屋とバスが動く期間とほぼ一致する。2026年で言えば7月11日から10月中旬までの三か月と少し。稜線の中岳避難小屋は9月22日に閉じるため、九月下旬以降は千枚小屋と荒川小屋を結ぶ形でしか稜線に泊まれない。七月後半から八月はお花畑の時期で、柵の内と外を見比べられる時期でもある。九月下旬に入れば、朝の稜線はすでに氷点下の領域に入る。
荒川岳の装備を決めるのは、標高そのものより行程の長さと逃げ場のなさである。椹島から千枚小屋まで一日、そこから荒川三山を越えて荒川小屋まで一日。途中に里へ抜ける横道はない。防風防水のレインウェア、稜線の朝夕に着る保温着、浮石の多い下りを支える靴とストックは外せない。服装は樹林帯の汗と稜線の冷えという二つの気候に同時に対応させる必要があり、行動しながら脱ぎ着で調節できる構成にしておく。
荒川岳という山は、名前も、頂も、道も、ひとつに定まらない。三つの峰があり、二つの呼び名があり、最高点は荒川ではなく悪沢の名で百名山に選ばれた。それでも歩いた後に残るのは、おそらく三千メートルという標高でも日本第六位という順位でもなく、花の斜面を抜けたところで柵の扉を後ろ手に閉めた、あの一瞬のほうだろう。