二つの頂と、傾いた吊尾根
鹿島槍ヶ岳は、富山県黒部市・立山町と長野県大町市の境をなす後立山連峰の主稜線に立つ。南峰2,889m、北峰2,842m。二つの頂がわずかに離れて並び、間をやや傾いた吊尾根が結ぶ。遠くからでも一目で見分けられるこの形ゆえに、「後立山連峰の盟主」と呼ばれてきた。1934年12月4日指定の中部山岳国立公園に含まれ、山頂部は特別保護地区にあたる。
深田久弥は『日本百名山』で、二峰をつなぐ傾いた吊尾根の品のよさは見飽きない、という趣旨を書いた。百名山に選ばれた理由は「かたち」にある。大町市街から西を見上げ、爺ヶ岳の向こうに二つのピークが並ぶ光景は、この地域の基準線のようなものだ。
山名は比較的新しい。古くは一帯がまとめて「後立山」と呼ばれ、この峰に固有の名はなかった。麓の鹿島集落は平家の落武者が住み着いたとされ、鹿島明神を勧請したことが地名の由来と伝わる。大正初期、陸地測量部が槍ヶ岳に対応する尖った頂として「鹿島槍ヶ岳」と命名した。記録に残る最初の検分登山は1843年(天保14年)である。
北峰の東面に懸かるカクネ里雪渓は、2018年1月、長野県内で初めて、国内では四例目の氷河と認められた。翌2019年に白馬村の唐松沢雪渓が加わり、国内の氷河は7カ所になった。カクネ里は主稜線の登山道からは望めず、この山の東側に隠されたままだ。
石畳と水平道をたどって
鹿島槍ヶ岳登山の主軸は、扇沢から柏原新道を詰める道である。起点は扇沢駅から車道を15分ほど下り返した柏原新道登山口。山と溪谷オンラインのモデルコースでは登り累計約1,270m、コースタイム3時間40分。山小屋が公開する区間タイムの合計も同じで、休憩を入れれば4時間強を見よという注記がつく。急登だが、道は小屋のスタッフと道職人が毎年手を入れており、北アルプスの主稜線に上がる道としては例外的に歩きやすい。
この道の性格は区間ごとの呼び名に出ている。八ツ見ベンチ、扇沢駅を見下ろす駅見岬、大岩を並べた総延長400mほどの石畳、ほぼ水平に150m続く水平道。名前が現在地の目盛りになる。もっとも急なのは下部のケルンまでで、種池山荘直下のガラ場では落石と転落に注意が要る。
種池山荘(2,450m)から先は稜線歩きに変わる。同じモデルコースでは冷池山荘(2,410m)まで2時間15分、布引岳・南峰を経て北峰まで2時間45分。全体で総距離26km、歩行15時間55分、累積標高差は登り下りとも3,061m。体力度★★★・技術度★★の初中級で、2,900m近い北アルプスの山としては技術的難度が低い。
山小屋が勧めるのは二泊三日で、冷池山荘に連泊して荷を置き、軽荷で往復する形が多いという。一泊二日も成立するが、初日に冷池まで入るには扇沢を昼前に発たねばならない。26kmを一日に圧縮する日帰りは、小屋側が繰り返し戒めている類の計画だ。
南峰から先は、別の山になる
穏やかなのは南峰までである。鹿島槍ヶ岳のルートを説明する山小屋自身の文章が、南峰を過ぎると登山道の様相はまったく変わるとし、慣れた人でなければ北峰の往復も勧められないと明記している。吊尾根は大町から見えるあの優美な線そのものだが、足元は痩せた岩稜と急な下降で、高度感も南側とは別物だ。
北へ抜ければさらに変わる。北峰と五竜岳の最低鞍部が八峰キレット(2,518m)で、大キレット・不帰キレットと並ぶ日本三大キレットの一つ。鞍部にキレット小屋が建ち、梯子と鎖、岩壁の桟道が続く。後立山連峰の一般ルートでは最難所とされ、扇沢から五竜岳を越え遠見尾根へ抜ける二泊三日が標準になる。北峰から南東へ延びる東尾根は一般登山道ではない。
上がる道はもう一本ある。大町市側の大谷原から赤岩尾根を詰める道で、西俣出合までは平坦な林道を約1時間、そこから冷乗越まで一気に高度を上げる。梯子が連続し、柏原新道とは傾斜の質が違う。駐車は橋の前後に15台ほど。大谷原へ下りる場合の交通手段はタクシーしかなく、下山用のタクシーは冷池山荘で予約しておく。信濃大町駅から約30分、6,500円程度が目安だ。
稜線に水はない
計画で最初に押さえるべき事実は水である。種池山荘も冷池山荘も自然の水場を持たない。稜線で手に入る水は小屋が売るもので、1リットル200円、宿泊者とテント泊者には1リットルが付く。汲める沢や湧水はない。八峰キレットに踏み込めば、給水できるのはキレット小屋だけになる。担ぎ上げる量と買い足す量は、家を出る前に決めておきたい。
2026年の営業は種池山荘・冷池山荘とも7月1日から10月17日まで。宿泊は完全予約制で、受付は5月15日午前10時に始まった。テント場も同じ期間で、混雑が見込まれる特定日のみ予約が要る。収容は種池山荘が今季約90人、冷池山荘が約120人と、コロナ禍以前の半分以下に絞られている。
種池山荘の前庭は、この稜線でもっとも落ち着ける休憩地点だと感じる。小屋の名のもとになった「種池」はごく小さな水たまりで、クロサンショウウオが棲み、夏にはオニヤンマが飛んでくる。飲み水にならないその池が、後立山のオアシスと呼ばれている。
雪が消えてから、雪が来るまで
柏原新道は夏道である。冬期と4月・5月の残雪期は通行できず、例年6月中旬から下旬にようやく通れるようになり、雪の心配なく歩けるのは7月に入ってから。早い年は10月末、遅くとも11月中旬には再び雪に閉ざされる。鹿島槍ヶ岳の季節は、実質的にこの4か月ほどだ。
7月から8月上旬は高山植物の時期で、柏原新道の林床にもゴゼンタチバナが並ぶ。9月中旬を過ぎると種池平のミネカエデが真っ先に黄葉し、クロウスゴが赤くなり、ナナカマドやダケカンバが続く。2026年9月時点では、シルバーウィークから月末が紅葉の中心になりそうだと小屋が伝えている。
装備は2,889mの稜線を前提に組む。9月初めの小屋の記録には、防水の利いた雨具と暖かな服装で来るようにという言葉が繰り返し出てくる。夏でも薄手のダウンかフリースを一枚入れる判断が妥当で、吊尾根や八峰キレットに入るならヘルメットは前提だ。
長野県警の令和6年中の集計では、県内の山岳遭難のうち後立山連峰が61件・19.0%で、槍・穂高連峰の62件に次ぐ多さだった。危ないのは岩場の難しさより、長い下りで集中が切れる時間帯である。長野県では2016年7月1日施行の登山安全条例により、指定登山道を通る場合は登山計画書の提出が義務づけられ、柏原新道の登山口には届出ポストが立つ。
2026年はもう一つ、7月16日以降、鹿島槍ヶ岳から爺ヶ岳、種池山荘、赤沢岳にかけてのほぼ全域でクマの目撃が相次いでいる。9月に入って減る傾向だが、小屋はテント場に荷物を置きっぱなしにすること、周辺に食べ物の汁を捨てることをやめるよう求めている。
扇沢橋がふさがれた夏
鹿島槍ヶ岳へのアクセスは扇沢を軸に組む。信濃大町駅から扇沢行きの路線バスで1,650円、大町温泉郷からなら1,320円・27分。扇沢駅から車道を15分ほど戻ると登山口に着く。トイレはなく飲料水も買えないので、扇沢駅か大町温泉郷の公衆トイレで済ませておく。車なら安曇野ICから1時間前後だ。
2026年9月時点で、計画に直接影響する事情が一つある。柏原新道登山口の扇沢橋が大規模な補修工事に入っており、登山口周辺の駐車スペースが60台近く減っている。平常は橋の前後5か所の路肩に合計約150台が置けるので、その4割が消えた計算になる。山小屋はバスとタクシーの利用を強く求め、週末・連休・お盆のマイカー日帰りは他の山域に振り替えてほしいとまで書いている。名物の焼きたてピザを混雑期は宿泊者限定にしたのも、日帰りの車を減らすためだ。柏原新道自体は通行に支障ない。
満車なら扇沢駅のいちばん下にある市営の無料駐車場まで回す。もう一つ、大町から扇沢へ上がる大町アルペンラインには事前の通行規制があり、1時間に30ミリの豪雨、あるいは降り続いて130ミリに達した場合は通行できなくなる。
鹿島槍ヶ岳はもっとも整った姿を持つ山のひとつである。だがその整いは、大町の街から眺めているうちは輪郭でしかない。扇沢からの長い一日と、水を買って歩く稜線と、南峰から先で表情を変える吊尾根の上でだけ、かたちは厚みに変わる。