武田菱が浮かぶ春
五竜岳は標高2,814m。山体は富山県黒部市と長野県大町市にまたがり、山頂部は富山県側に位置する。飛騨山脈の東側を南北に走る後立山連峰の一座で、中部山岳国立公園に含まれる。北に唐松岳、南に鹿島槍ヶ岳を従え、稜線のちょうど中央に構えている。山頂部は濃飛流紋岩型の溶結凝灰岩、山腹は黒雲母花崗岩。遠くから見ても黒い。この色が、この山の印象のほとんどを決めている。
山名の由来は雪形にある。春、山頂直下の東面に菱形を四つ組み合わせた「武田菱」の雪形が現れる。この一帯は戦国期に武田氏の版図にあり、麓の人々にとって武田家の家紋は見慣れた図形だった。そこから「御菱(ごりょう)」と呼ばれ、転じて「五竜」になったとされる。白馬山麓には「割菱ノ頭」の呼称も残り、越中側では古く「餓鬼ヶ岳」と呼ばれていた。記録に残る初登頂は1908年7月、三枝威之助が白馬岳から鹿島槍ヶ岳へ縦走する途中に踏んだものである。
深田久弥は『日本百名山』にこの山を採り、筋骨の張った山容を書き留めている。後立山連峰には白馬岳の華やかさも鹿島槍ヶ岳の双耳峰の端正さもあるが、五竜岳にはそのどちらもない。代わりにあるのは、稜線から一段せり上がった黒い岩塊としての存在感である。
遠見尾根、いくつもの頭を越えて
五竜岳のルートのうち、もっとも多く歩かれているのが遠見尾根である。白馬村神城のエスカルプラザから白馬五竜テレキャビンに乗り、約8分でアルプス平駅まで一気に上がる。この機械の有無で五竜岳登山の性格は変わる。ただし白馬村が示すモデルコースは、この尾根の往復に一泊二日を充て、1日目約5時間50分・2日目約6時間05分を見込んでいる。下りのテレキャビン最終が16時30分であることを考えると、日帰りで押し通す計画は現実的とは言いがたい。
遠見尾根という名は、小ピークを次々に越えていく道の性格をそのまま表している。地蔵ノ頭から見返り坂、二ノ背髪を経て小遠見山、そこから中遠見山、大遠見山、西遠見山と、「遠見」を名に持つ頭を順に踏んでいく。小遠見山までは高山植物園を目当てに来た観光客も歩く区間だが、その先は登山道の顔になる。西遠見山を過ぎて白岳に取り付くあたりから斜度が増し、ざれた急斜面が現れる。
白馬村がこのコースで挙げる危険箇所は「白岳付近の鎖場」と「五竜岳山頂手前の岩場」の二つ、いずれも滑落・転落である。白岳の肩を越えると、稜線上に五竜山荘の赤い屋根が見えてくる。そこから山頂へは岩稜帯で、ざれた道に足を取られやすく、鎖の助けを借りる箇所がある。
牛首を渡って、唐松から
もうひとつの主要ルートが、八方尾根から唐松岳を経由して南下する縦走である。JR大糸線白馬駅からバスで八方へ入り、ゴンドラとリフトを乗り継いだ八方池山荘が実質的な起点になる。八方池、丸山ケルンと高度を上げ、唐松岳頂上山荘まではよく整備された尾根道が続く。
性格が変わるのは唐松岳頂上山荘(標高2,465m、収容350人)を出てからだ。五竜山荘までの区間で、核心は「牛首」と呼ばれる岩稜である。鎖の連続する痩せた岩場で、鎖に体重を預けずに三点支持で通過するのが基本になる。特殊な動きを要求される場所ではないが、濡れた岩は滑りやすく、白馬村の危険箇所一覧にも「牛首岩稜(滑転落)」と明記されている。八方池山荘から入って遠見尾根へ下る二泊三日は、1日目約5時間・2日目約5時間・3日目約4時間30分という配分になる。二つのスキー場の索道を入口と出口に使え、麓の移動も大糸線一本で済むのが、この組み立ての利点である。
八峰キレットの向こう側
五竜岳から南へ進むと、道の難度は一段上がる。五竜岳と鹿島槍ヶ岳のあいだには日本三大キレットに数えられる八峰キレットが横たわり、切れ落ちた稜線をはしごと鎖で繋いでいく。白馬館のコースタイムでは五竜岳からキレット小屋まで下り4時間、キレット小屋から鹿島槍ヶ岳まで下り3時間。距離のわりに時間がかかるのは、そういう地形だからである。白馬村がこの区間に付す注意は「滑転落・落石」で、遠見尾根の鎖場とは危険の質が違う。
標高2,470m、収容100人のキレット小屋は、そのキレットの脇に建っている。一日で抜けるのが難しい区間のために存在する小屋で、縦走者はほぼ例外なくここに泊まる。白馬館は五竜から扇沢へ抜ける全体を歩行時間20時間35分とし、難易度を5段階の5、体力度を5段階の4に置いている。ヘルメットは必須装備、残雪期にはアイゼン等も指定されている。白馬村のモデルコースでは八方尾根から鹿島槍ヶ岳まで通す行程に三泊四日・計約24時間を充てており、これが無理のない目安になる。
武田菱の雪形が出るのは春、一般登山者が五竜岳に登れる季節の前である。しかも雪形がよく見えるのは遠見尾根のある信州側で、山頂そのものは富山県に属する。名を与えたのは長野側の麓の人々、頂は富山県。この山は、見る土地と立つ土地が分かれている。
二四九〇メートルの鞍部で
五竜山荘は標高2,490m、白岳と五竜岳のあいだの鞍部に建つ収容300人の小屋で、テント場も併設されている。2026年の営業は、残雪期が4月25日から5月5日、夏山が6月20日から10月12日。宿泊はWEB予約制で、夏山シーズンの受付は5月20日に開始された。料金は1泊2食16,000円、素泊まり12,000円、テント泊3,000円というのが2026年の水準である。
五竜岳に登れる時期は、無雪期に限れば6月下旬から10月上旬。ただし季節の進み方に癖がある。2026年は6月19日の時点で白岳直下の鎖場に山荘が補助ロープを設置し、水平道では夏道の上に4mほどの高さで雪が残って通行注意が出ていた。6月26日には「3千m級の残雪期装備」として6本爪アイゼンと防寒防風対策が呼びかけられ、軽アイゼンがほぼ不要になったと山荘が伝えたのは7月3日である。6月下旬から高山植物が始まり、7月にはコバイケイソウやコマクサが咲く。
服装と装備は、この気温差を前提に組む。山荘は8月21日の時点で朝の気温を11℃前後と伝え、防寒衣類の用意を促していた。夏でもフリースと防風防水のレインウェアは外せず、牛首や山頂直下を通るならヘルメットを持つのが標準的な判断になる。八峰キレットへ踏み込むなら必携である。索道の最終に間に合わなかった場合を考えて、ヘッドランプも必ず入れておきたい。2,800m級の稜線と岩稜という二つの条件を同時に満たす必要があり、同じ後立山でも唐松岳の往復より一段厚くなる。
2026年9月時点で、五竜岳の登山道そのものに通行止めは出ていない。ただし8月下旬から9月上旬にかけて強い雨風の日が続き、8月28日と9月4日には山荘から低体温症への注意が発信された。稜線に逃げ場はなく、荒天時に五竜山荘と唐松岳頂上山荘のあいだで判断を誤れば牛首の上で行き詰まる。出発前に山荘の現地情報を読む習慣が、この山では安全に直結する。
神城駅からの一日
五竜岳のアクセスは、後立山連峰の中では恵まれている部類に入る。遠見尾根の起点となるエスカルプラザの最寄りはJR大糸線神城駅で、白馬五竜テレキャビンの2026年グリーンシーズン運行は6月20日から10月18日、上り最終16時、下り最終16時30分。6月6日から7日と13日から14日の週末は早期開園にあたり、9月1日から18日と10月13日以降は展望リフトが運休する。料金と当日の運休は公式の運行カレンダーで確認したい。首都圏からは新宿から特急あずさで松本へ出て、大糸線に乗り換える。八方尾根から入る場合も同じ路線の白馬駅が起点になるため、行きと帰りで尾根を変える計画が立てやすい。
忘れてはならないのが登山計画書である。長野県登山安全条例により、県が定める指定登山道を通行する場合は登山計画書の届出が必要で、北アルプスの主要な登山道はこれに含まれる。ながの電子申請サービスやコンパス、YAMAPといった経路のほか、登山口の登山ポストへの投函でも受け付けられる。テレキャビンで標高を稼げるぶん軽く考えられがちな山だが、手続きの要求は白馬岳や槍ヶ岳と変わらない。
五竜岳は、後立山連峰を初めて歩く人には少し手強く、縦走に慣れた人には八峰キレットという次の扉を持つ山である。遠見尾根を詰めて山頂の岩を踏み、五竜山荘の夜を過ごして下りる一泊二日は、その両方の入り口に立つ行程だ。麓から黒く見えたあの塊の上に立つと、この山がなぜ稜線の真ん中で人の目を引き続けてきたのかが腑に落ちる。