笠ヶ岳という山
笠ヶ岳は岐阜県高山市に立つ標高2,898mの山で、北アルプス南部、槍ヶ岳・穂高連峰の真西に位置する独立性の高い山である。深田久弥の日本百名山に選ばれており、中部山岳国立公園を構成する一座でもある。山名はその名のとおり、ふもとから見上げると笠を伏せたような端正な山容に由来する。
笠ヶ岳は槍穂連峰の主稜線とは別の支稜の上に立っているため、北アルプスの中心部から見ると一段奥まった印象がある。新穂高温泉から仰ぐと、上部の長い稜線が空に向かって優雅な曲線を描き、まさに「山の中の名脇役」と呼びたい姿だ。江戸時代後期の僧播隆上人(ばんりゅうしょうにん)が修行登山の地として笠ヶ岳を選び、後に槍ヶ岳の開山者として知られていく――この山は北アルプス南部の修験・宗教登山の出発点になった一座でもある。
笠新道、急登一直線のメインルート
笠ヶ岳の登山ルートで最もポピュラーなのが笠新道(かさしんどう)で、新穂高温泉の左俣林道を1時間ほど歩いた笠新道登山口から尾根を一直線に登る。標高差は約1,800m、北アルプスの中でもとくに急峻なルートとして知られ、笠新道登山口から杓子平までは標準コースタイムで4時間半、登り通しの容赦のない道だ。
杓子平に出ると稜線まではあと一息、笠ヶ岳山荘で1泊するのが標準。1日目は新穂高温泉から笠新道で笠ヶ岳山荘まで、2日目に山頂をピストンしてクリヤ谷または笠新道で下山、という1泊2日が現実的なライン。新穂高温泉のアクセスはJR松本駅から濃飛バスで約2時間、JR富山駅から特急バスで約2時間。マイカーの場合は深山荘前駐車場が利用できる。
クリヤ谷からの古典ルート、もう一つの笠ヶ岳
笠新道よりも古典的、かつ歩く人が少ないのがクリヤ谷ルートである。新穂高温泉から錫杖岳の麓を通り、クリヤ谷を遡って雷鳥岩・笠ヶ岳南峰を経て山頂へ抜ける。標準コースタイム10時間以上、沢沿いの長いアプローチと急峻な尾根を組み合わせたタフな道で、笠新道が整備される前はこちらが本道だった。
クリヤ谷ルートは登山道としての整備状況も笠新道に比べてシンプルで、雷鳥岩周辺は岩稜の急斜面、上部の南峰直下は崩壊地のトラバースが続く。経験者向けで、近年は登りより下りに使う登山者が多い。笠ヶ岳の登山道を二つ持つ意味は、片道を笠新道、片道をクリヤ谷で組み合わせることで「同じ山の二つの顔」を味わえる点にある。
双六岳経由の縦走、笠ヶ岳の本当の楽しみ方
笠新道の急登が苦手な人、もしくは時間と体力に余裕がある人にとっての本命ルートが、新穂高温泉〜わさび平〜鏡平〜双六小屋〜笠ヶ岳山荘の縦走だ。新穂高から双六小屋までが1日、双六小屋から笠ヶ岳山荘までが約7時間――稜線歩きが終始続き、東に槍穂連峰、西に白山と乗鞍岳、足元には黒部源流が広がる、北アルプスでも屈指の眺望ルートである。
双六小屋から笠ヶ岳までの稜線は、槍穂連峰のシルエットを延々と東側に従えて歩く区間で、これを目当てに笠ヶ岳に登るという登山者も少なくない。鷲羽岳・三俣蓮華岳・水晶岳と並ぶ「奥北アルプス」の山小屋網と組み合わせれば、笠ヶ岳まで4日5日の長期縦走も組める。
装備と心構え、急登と高度の現実
笠ヶ岳の装備は、北アルプスの3,000m級稜線縦走に準じた本気の準備が前提となる。山頂部の気温は新穂高より概ね15〜18℃低く、稜線の風と日没後の冷え込みを甘く見ると低体温症のリスクが現実になる。フリース、ダウン、防風シェル、雨具上下、手袋――各自が完結した装備一式を背負う。
笠ヶ岳特有のリスクは、笠新道の急登そのものだ。標高差1,800mを一気に登る道は、北アルプスの中でも体力的に厳しい部類で、初めての3,000m級登山にはまったく向かない。雨後の樹林帯と岩石帯の混じる区間で滑落事故も少なくない。雷雨対策として午後の早い時間に山小屋に入る計画、ヘッドランプ予備、行動食の余裕は、笠ヶ岳の場合とくに大事になる。
笠ヶ岳の服装は、夏でも長袖長ズボン、フリースと風を切るシェルが基本。雪は6月から7月上旬に注意が必要で、杓子平から稜線への斜面は7月半ばまで雪渓が残る。クリヤ谷ルートを使う場合は沢沿いの渡渉箇所があり、グリップのきく防水トレッキングシューズと、場合によってはスパッツを携行したい。
山頂からの眺めと、笠ヶ岳という孤独な選択
笠ヶ岳の山頂は、北アルプスの百名山の中でもとくに槍穂連峰を真東に従えて立つ位置にある。山頂からは東に槍ヶ岳と穂高連峰、南に乗鞍岳と御嶽山、西に白山、北に薬師岳と鷲羽岳・水晶岳。8月の盆を過ぎたあとの澄んだ朝、槍ヶ岳のシルエットがモルゲンロートで赤く染まる時間帯は、笠ヶ岳の山頂から見るのがもっとも美しい。
笠ヶ岳の時期選びは、山小屋営業に合わせて7月中旬から10月初旬がメイン。8月の盆過ぎから雷雨と人の少なさのバランスが良くなり、9月中旬の紅葉期は鏡平から双六岳に向かう稜線が黄と赤に染まる。10月初旬には初冠雪と山小屋閉鎖が重なり、本格シーズンが終わる。
笠ヶ岳は、槍ヶ岳や穂高岳のような華やかさを持たない代わりに、誰も来ない時間と、誰も写真に撮らない景色を確実に提供してくれる山だ。同じ北アルプスの3,000m級でも、笠ヶ岳を選ぶ登山者は、ある種の孤独を求めて来る人が多い。北アルプスの主役を一巡したあと、もう一段深く山と向き合いたくなった時、笠ヶ岳は静かにそこに立っている。