ゴーロという名の山
黒部五郎岳は、富山県富山市と岐阜県飛騨市・高山市の境に立つ標高2,840mの山である。山頂には三等三角点「黒部」が置かれ、実測の標高は2,839.58m。山域は1934年12月4日指定の中部山岳国立公園に含まれ、富山県側は特別保護地区にあたる。日本百名山と花の百名山の両方に名を連ねるが、覚えるべきは肩書きより名前のほうだ。「五郎」は人名ではない。大きな岩がごろごろと積み重なった場所を指す登山用語の「ゴーロ」に、五郎の字を当てたものである。
ゴーロを名に持つ山は、北アルプスにもう一座ある。裏銀座の野口五郎岳だ。二つを区別するために、それぞれ近くの村の名が冠された。黒部村の側が黒部五郎岳、野口村の側が野口五郎岳という具合である。岐阜県側ではこの山を中ノ俣岳と呼び、かつては鍋岳の名もあった。名前がそのまま地形の説明になっている山は、そう多くない。黒部五郎岳登山とは、名前の由来を自分の足で踏みにいく行為でもある。
山頂の真下に、椀がひとつ
この山を特別な存在にしているのは、標高でも位置でもない。山頂の真下に開いた大きな圏谷——黒部五郎カールである。氷河が削り出した椀形の窪地が、頂上のすぐ下に口を開けている。山体は花崗閃緑岩でできており、山頂付近は岩が積み重なった砂礫地になる。つまりカールの底に散らばる岩は、この山の名前そのものだ。ゴーロという言葉と目の前の光景が一致する瞬間が、この山には用意されている。かつての呼び名「鍋岳」が、この椀の形に重なる。
黒部五郎小舎から山頂へは、稜線を辿る道と、カールの底を詰めて山頂直下で稜線に合流する道の二本がある。残雪の量で使い分けが変わり、雪の多い時期はカール側が歩きにくい。稜線からカールを見下ろす角度と、底から壁を見上げる角度はまったく別の経験で、どちらか一方だけでは、この山を歩いたとは言いにくい。往路と復路で二本を振り分けるのが、この地形をいちばん無駄なく使う歩き方だ。
遠いことが、この山の性格である
黒部五郎岳のルートは、どれも長い。黒部川の源流域という北アルプスの奥まった位置にあるため、登山口から山頂まで一日で届く道がそもそも存在しない。富山県側の起点は有峰湖畔の折立である。折立から樹林帯を抜けて太郎兵衛平へ上がり、そこから北ノ俣岳、赤木岳と稜線上の高まりを越えて黒部五郎岳へ向かう。太郎平小屋か黒部五郎小舎での一泊が、計画の前提になる。
岐阜県側は新穂高温泉から入る。双六小屋グループの案内では、わさび平から鏡平山荘まで約4時間、鏡平山荘から双六小屋までさらに約2時間30分。初日はここで終わる。翌日、双六小屋から三俣蓮華岳を越えて黒部五郎小舎へ向かうのだが、この区間には双六岳を越える直登、最短の中道、稜線を避ける巻道の三本がある。小屋側は、好天の日は直登、強風や雷の危険があるときは巻道を、と案内している。稜線に出るか出ないかを当日の空模様で選び直せる区間は、北アルプスでもそう多くない。
このほか、折立から黒部五郎岳・三俣蓮華岳・双六岳をつないで槍ヶ岳へ向かう西銀座ダイヤモンドコース、岐阜県側から稜線へ突き上げる神岡新道と飛越新道が知られる。結果として黒部五郎岳は、単独のピークとして登られるより、太郎平・雲ノ平・三俣蓮華・双六といった黒部源流の山群をつなぐ縦走の途中に置かれることが多い。この山に登ると決めることは、ほとんどの場合「三泊四日の行程をどう組むか」を決めることと同じ意味を持つ。
カールにいちばん近い一軒
カールの直下に立つ宿が黒部五郎小舎だ。標高2,350m、収容60名。双六小屋グループが運営し、2026年の営業期間は7月10日から10月15日、完全予約制である。一般室の1泊2食付が15,500円、夕食付が14,000円、素泊まりが11,000円。2名で使う個室は1名あたり18,000円。テント場は30張で、大人2,000円、中学・高校生1,000円、小学生500円。予約はオンライン予約システムで受け付け、事務所は0577-34-6268、現地の電話080-1588-1606は7月10日から10月10日まで通じる。当日キャンセルと無連絡の不泊には宿泊料金の100%がかかる。盛夏と紅葉期に縦走者が集中する山域で、60名という規模は大きくない。日程は小舎の空きから逆算するのが現実的だ。
富山県側では、五十嶋商事が運営するロッジ太郎が、太郎平小屋・薬師沢小屋・高天原山荘・スゴ乗越小屋の4軒を持つ。太郎平小屋は太郎兵衛平に立ち、黒部五郎岳、薬師岳、雲ノ平のいずれへも道が分かれていく黒部源流の交差点にあたる。折立から入る計画では、初日をここで切るのが標準的な組み方になる。
林道が開いてから、小舎が閉まるまで
黒部五郎岳の季節は、山そのものより二つのカレンダーで決まる。ひとつは有峰林道の開通、もうひとつは黒部五郎小舎の営業期間だ。2026年の有峰林道は6月1日に開通した。黒部五郎小舎は7月10日から10月15日。折立から入って小舎に泊まる標準的な形が成立するのは、実質的に7月半ばから10月半ばまでの三か月ほどということになる。10月15日を過ぎれば、カールの底に泊まるという選択肢は消える。この時期の幅の狭さが、黒部五郎岳の計画をいつも窮屈にする。
装備は、2,800m級の稜線を二日以上続けて歩く前提で組む。盛夏でも稜線の朝晩は冷え、防風性のあるレインウェアと保温着は外せない。服装は行動中の汗と停滞時の冷えを見越した重ね着が基本になる。カールの底は雪解けの遅い地形で、季節の早いうちは雪が残る。そして行程が長いということは、天候が崩れたときに引き返す距離も長いということだ。エスケープの取りにくさが、この山のいちばん固有のリスクである。
カールの底で朝を迎えるかどうかで、黒部五郎岳の記憶はまるで違うものになる。夕方に黒部五郎小舎へ入り、翌朝カールを詰めて山頂に立つ組み方なら、椀の底から壁を見上げる時間と、頂から椀を見下ろす時間の両方が手に入る。稜線だけを通過していく縦走者は、この山のいちばん大事な部分を横目に見て通り過ぎることになる。
亀谷連絡所を越えて
黒部五郎岳のアクセスは、富山県側が有料の林道を経由する点で独特だ。2026年9月時点で、亀谷連絡所から有峰湖を経て折立に至る小見線・折立線と、岐阜県側の東谷連絡所から有峰ダムに至る東谷線・西岸線が、6月1日から供用されている。水須連絡所から有峰湖に至る小口川線は、供用開始日が未定のままだ。通行できる時間は午前6時から午後8時までで、午後8時から翌朝6時までは通行できない。深夜に登山口へ入って車中で仮眠、という組み方が、この山ではできない。
通行料金は1車両1回あたり、大型車6,600円、小型車2,700円、自動二輪等600円。大雨や落石で通行規制がかかることもあり、出発前の確認は欠かせない。岐阜県側から入るなら新穂高温泉が起点となり、林道の料金と時間の制約は関係しなくなるが、そのぶん双六小屋までの登りが初日にそのまま加わる。
折立を起点とする山域では、ロッジ太郎が登山道の状況を随時公表している。2026年9月4日付では、雲ノ平へ向かう大東新道のA沢からB沢の区間で、鎖場の下部が土砂で一部埋まっていると報告された。通行はできるが、崩れやすい箇所を避けて歩く必要があるという。8月31日には第二渡渉点の復旧も伝えられている。黒部五郎岳そのものへの道ではないが、太郎平から雲ノ平までつなぐ計画なら、出発前に最新の告知を確認しておきたい。中部山岳国立公園ではクマへの注意喚起も出ており、長いアプローチを単独で歩くならなおさらだ。
黒部五郎岳は、行くと決めてから実際に立つまでに時間のかかる山だ。林道の開通を待ち、小舎の予約を取り、三日か四日の休みを確保して、ようやくカールの底にたどり着く。その手間の分だけ、椀の底から見上げる壁は長く残る。名前のとおり、岩がごろごろ転がっているだけの場所なのに、である。