最南の三千メートル
聖岳は静岡県静岡市葵区と長野県飯田市の境に立つ標高3,013mの山で、赤石山脈——南アルプス——のなかで最も南に位置する三千メートル峰である。南アルプス国立公園の区域に含まれ、日本百名山の一座でもある。日本アルプス最南端の3,000m峰という肩書きは、単なる地理上の順位ではない。北へ向かえば赤石岳、荒川三山と三千メートル級の背骨が続くのに対し、聖岳から南は光岳を経て標高を落とし、深南部の人の入りにくい森へ沈んでいく。聖岳はその切り替わる地点に立っている。
山頂と呼ばれるのは前聖岳で、東へ稜線を辿ると奥聖岳(2,978.7m)、南へ下れば小聖岳(2,662m)がある。奥聖岳から東へ伸びる尾根は、静岡側の登山基地である椹島まで落ちていく。遠望すると端正な三角錐に見えるが、南西斜面には大規模な崩落地があり、赤色チャートが露出している。南面にはカール地形も残る。遠くから聖岳を見分けるとき、この崩れの傷が目印になる。
肘を折る、という語源
「聖」の字が当てられているために宗教的な由来を想像しやすいが、静岡県の解説が挙げる説はどちらも地形の側にある。南東へ落ちる聖沢が肘を曲げたような形をしており、「肘折る(ひじおる)」が転じて「ひじり」になったという説。もうひとつは「日出ル岳(ひいづるだけ)」が転じたとする説。どちらにせよ、名は信仰ではなく、沢の形か日の出の方角という、麓から見上げた実感に根ざしている。
記録に残る初登頂は明治後期、陸地測量部の測量官が三角点の選標のために登ったものとされる。北アルプスの主要峰が同じ頃に次々と踏まれていったのに比べると、聖岳登山の歴史は静かに始まった。深田久弥が『日本百名山』に選んだのちも賑わいを得なかったのは、山の格ではなく、単純に遠かったからである。その遠さは、2026年9月時点でも変わっていない。
畑薙から先は、歩く距離の話になる
聖岳のアクセスの起点は、事実上ふたつしかない。静岡県側の畑薙と、長野県側の遠山郷である。まず静岡側から見ていく。公共交通ならJR静岡駅からしずてつジャストラインで畑薙第一ダムまで約3時間30分。マイカーなら東名高速の静岡ICから約83km、県道を延々と詰める。いずれにしても、登山口に着く前に半日が消える。このバスは季節運行のため、その年に走っているかどうかから確かめる必要がある。
車を置くのは畑薙夏期臨時駐車場で、特種東海フォレストによれば2026年の開設予定は7月11日から10月12日、収容は200台程度。白樺荘から畑薙第一ダム方面へ約2.5kmの地点にあり、ダムの堰堤上や周辺の路上・路肩への駐車は禁止されている。通年使える沼平駐車場は20台程度と小さい。そして畑薙臨時駐車場のバス停から聖沢登山口までは約11.4km。歩けば、それだけで一日の行程になる距離だ。
この区間を運んでいるのが特種東海フォレストの送迎バスだが、条件が独特である。2026年の運行期間は7月11日から10月12日。7月11日から9月23日までは事前予約が必須で、9月24日から10月9日は予約なしの当日乗車ができる。運賃は往復無料——ただしそれは、同社が運営する山小屋・ロッヂに素泊まり以上で宿泊する客へのサービスだからである。テント泊のみの行程は対象外とされる。
ここに、聖岳を計画する者だけがぶつかる段差がある。無料乗車の対象として公式に挙げられているのは椹島ロッヂ・千枚小屋・赤石小屋・荒川小屋・百間洞山の家・赤石岳避難小屋で、聖平小屋はその一覧に入っていない。聖平小屋泊の行程でこのバスに乗れるのかどうか、公式ページに明示がない。加えて2026年は、聖岳登山口での途中下車が百間洞山の家の修繕工事に伴って7月・8月を対象とし、椹島宿泊者は翌朝に下車できるという但し書きが付く。工事が終われば条件は変わる。予約を入れる前に、東海フォレストか聖平小屋へ直接確かめるべき一点である。なお椹島から聖岳登山口までは徒歩で約50分。
静岡側の聖岳ルートは、聖沢登山口から聖平へ登り、聖平小屋を拠点に山頂を往復する。骨格は単純でありながら、その前後に林道と宿泊施設の条件が分厚く貼りついている。静岡県の公式資料も、いずれのルートも2泊3日以上を要する熟練者向けとする。日帰りという選択肢はない。
便ヶ島へ続く道が、閉じたままでいる
長野県側の入口は飯田市の遠山郷にある。林道赤石線を詰めて芝沢ゲートに車を置き、そこから易老渡を経て便ヶ島へ。便ヶ島から先は西沢渡に出て、薊畑へ向かって尾根を登り上げる、というのが古くからの道筋だ。道の一部は遠山森林鉄道の跡地を通っており、南アルプス南部の林業の歴史が、そのまま登山道になっている。
ところが、2026年9月時点で、この道は聖岳まで繋がっていない。遠山郷観光協会が公開する9月2日現在の情報では、芝沢ゲートまでは車で入れ、芝沢から易老渡を経て便ヶ島までは徒歩で通行できる。しかし便ヶ島から西沢渡までの聖岳方面は通行止めとされ、解除の時期は示されていない。林道赤石線そのものも、上島トンネル上の下中根分岐〜民宿ひなた間が土砂崩落で通行止め、ナギナカ沢でも通行止めである。光岳方面への入山は可能とされているが、聖岳へ向かう長野側の道は閉じている。
聖平という、平らな場所
聖平は、聖岳の南東に開けた平坦地である。山頂周辺は森林限界を越えたハイマツ帯の岩山で、高山植物が自生し、ライチョウの生息地になっている。奥聖岳の西側には雪田群落が広がり、チングルマやアオノツガザクラといった湿った環境を好む花が育つ。三千メートルの頂の足元にこの平坦地が用意されているという構造が、聖岳の登山計画をかろうじて成立させている。
シカの食害は南アルプスのほぼ全域で確認されている。そのなかで、聖岳の山頂周辺はシカの食害をあまり受けていない数少ない場所のひとつとして静岡県の資料に挙げられている。聖岳の稜線で花を見ることには、いま南アルプスで起きていることの裏返しが含まれている。
聖平小屋の2026年の営業は7月11日(土)から9月23日(水)まで、宿泊の受け入れは9月22日分までとされている。小屋泊は事前予約が必須で、テント泊は予約不要。小屋自身も公式サイトで、ここ数年の台風の影響で登山道の崩壊や橋の流出があり、整備は行っているが難易度が上がっていると告知し、余裕を持った計画を求めている。山頂へは荷を小屋に置いて往復するのが一般的である。
聖岳の計画で最初に開くべきものは地形図ではない。送迎バスの運行カレンダーと、聖平小屋の営業日と、林道の通行情報である。この三つが重なった日にちだけが、実際に登れる日にちになる。
七月中旬から九月下旬という、細い窓
聖岳の季節を決めているのは、雪よりも施設の営業期間である。初夏まで山頂部に雪が残ることはあるが、畑薙夏期臨時駐車場も送迎バスも7月11日から、聖平小屋も7月11日から9月23日まで。つまり、無理のない形で聖岳登山が成立する時期は、7月中旬から9月下旬までの二か月半ほどに絞られる。9月24日から10月9日は送迎バスが当日乗車に切り替わって身軽になるが、その頃には聖平小屋が閉まっている。
装備は三千メートルの稜線で2泊3日以上を過ごす前提で組む。夏でも稜線は冷え、雨と風に晒される時間が長い。防風防水のレインウェアと保温着、そして行動中の水は、聖岳では余裕ではなく前提条件に近い。行程の大半を占めるのは長い林道歩きと樹林帯の登りだから、足に合った登山靴と、荷を背負って一日動ける体力が土台になる。登山届と下山連絡も、人の少ない山域だからこそ省けない。
聖岳が難しいのは、岩場や鎖場が続くからではない。人里から遠い場所に三千メートルの頂があり、そこへ至る林道が長く、災害でしばしば断たれ、車と小屋の便が短い夏にしか開かないからである。裏を返せば、この頂に立つということは、日本アルプスの南の端まで自分の足で移動しきったということでもある。