富士山に北半分を呑まれた火山
愛鷹山は静岡県東部、富士山の南隣に横たわる山塊である。最高峰は越前岳の標高1,504.2m。ただし狭義に「愛鷹山」と言えば、連峰の南端に立つ標高1,187mの一峰を指す。沼津市内で最も高く、一等三角点を置く峰だ。日本二百名山に数えられるのは連峰全体であり、登山者が最高点を目指して歩くのは多くの場合、越前岳のほうになる。富士山よりはるかに古い第四紀の成層火山で、噴火の記録を持つ活火山ではなく、火山としての生涯はすでに終えている。
富士山より古く、富士山より低い。この二つの事実が、愛鷹山という山の姿をほとんど決めてしまった。山体の北側は、あとから成長した富士山の裾野に取り込まれている。北半分を隣の山に食われたまま残っている山、と言い換えてもいい。残された南半分は長い侵食を受けて深く刻まれ、主脈上には北から越前岳、呼子岳、鋸岳、位牌岳、愛鷹山が並ぶ。黒岳、前岳、大岳、袴腰岳を加えれば九つの峰を数える山塊で、富士市・沼津市・長泉町・裾野市の四つの行政区域にまたがっている。
越前岳の山頂は展望に優れ、伊豆半島の山々から箱根方面までを間近に望む。標高1,500mそこそこでこれだけ見えるのは、富士山を除けば周囲に競合する高さがないからだ。そして北を向けば、視界の上半分が富士山で埋まる。
十里木高原、階段から始まる富士の正面席
愛鷹山登山の最短にして最も歩かれているのが、北面の十里木高原から越前岳へ突き上げる道である。登山口は国道469号沿い、富士サファリパークと富士山こどもの国のあいだ。駐車場は38台分で、大型バスは入れない。トイレがあり、その脇には靴の泥を落とすための水道まで引かれている。
道は駐車場からいきなり急な階段で始まる。十五分ほどで展望台、さらに三十五分ほどで馬ノ背見晴台。ここまでは草原状の斜面を登っていくので、振り返るたびに富士山が背後で大きくなる。以後は樹林に入り、平坦地の展望台、勢子辻分岐を経て山頂に至る。登山口ナビの標準コースタイムは登り2時間35分、下り1時間40分。山と溪谷オンラインも十里木高原からの往復を4時間35分としており、二つの数字はおおむね揃う。朝に出れば昼過ぎには戻ってこられる行程だ。
山頂から山神社方面へ二十分ほど下ったところにある富士見台は、越前岳のなかでも富士山の見え方が最も良いとされる場所だ。1938年発行の旧50銭紙幣に使われた富士山は、ここから撮影されたものだという。紙幣の図案になるほどの構図が、山頂ではなく中腹にある。十里木高原を往復するだけの計画でも、ここまで足を延ばす時間は見込んでおきたい。
牧野富太郎が名づけた紫、五月の終わりに
アシタカツツジは、牧野富太郎が命名したツツジである。自生地は愛鷹山塊と天子ヶ岳のごく一部に限られる。裾野市の解説によれば標高800mから1,500mのあいだに分布し、純粋種の雄しべは10本、低地へ下るほどヤマツツジとの交配種が混じって7本から9本になるという。花期は5月下旬から6月上旬。沼津市も標高800m以上でピンク色のアシタカツツジと白いヤマボウシが咲くと案内しており、越前岳では山頂直下でも花に出会える。
十里木別荘地内に残る「アシタカツツジ原生群落」は、約2ヘクタールが1967年12月14日に裾野市の天然記念物に指定され、1972年9月22日にはこの花そのものが市の花に定められた。群落は別荘地という私有地の先にあり、徐行すること、路上駐車をしないこと、原生の花を摘み取らないことが明記されている。裾野市は開花状況を公式サイトで更新しており、2026年5月15日時点の発表は「開花状況にはばらつきがあり、見頃の木と散り終えた木が入り混じっています」というものだった。花の季節に愛鷹山へ向かうなら、山の情報を探すより先に、この市の告知を開くほうが早い。
歩けない道から考える — 位牌岳と鋸岳
愛鷹山のルートを組むとき、先に頭へ入れるべきなのは歩ける道よりも歩けない道のほうかもしれない。裾野市は公式に、位牌岳から蓬莱山(割石峠近く)までの鋸岳の区間は、特に崩落が激しく通行止めになっていると案内している。同じページには、愛鷹連峰が古い火山であって崩れやすく、充分な装備なしでの登山は危険だとも書かれている。火山としての活動を終えたあとも、この山は崩れることで形を変えつづけている。
結果として、連峰を北から南へ一本に貫く縦走は、現在の一般登山道としては成立しない。位牌岳(1,457.5m)へ登るなら南側の愛鷹水神社口から入り、愛鷹山、馬場平(1,203m)、袴腰岳、一服峠を経由するラインが標準になる。登山口ナビの標準コースタイムは登り5時間05分、下り3時間30分。越前岳の倍以上の行程だ。同じ山塊の北端と南端を、別々の山として計画する——愛鷹山ではそれが現実的な向き合い方になる。
山神社から黒岳へ、遠回りという選択
裾野市が特に推しているのは、山神社駐車場から黒岳を経由して越前岳に登り、十里木高原へ下るルートである。理由は展望地が豊富だからで、つまり越前岳の往復だけでは拾いきれない眺めを拾っていく道だ。山神社駐車場は約30台で簡易トイレがあり、こちらもバスは入れない。ただし起点と終点が分かれるため、車を二台まわすか、下山後の足をあらかじめ手配しておく必要がある。
登山届の提出先は、目指す峰によって分かれる。裾野市の案内では越前岳が富士警察署、位牌岳と愛鷹山は裾野警察署。当日なら各駐車場の登山ポストに入れる。標高1,500mに届かない山で登山届と言われるとやや大仰に感じるかもしれないが、崩れやすい火山体であること、そして愛鷹連峰が野生動物の生息地であることを踏まえれば、この案内は理にかなっている。
裾野市はアシタカツツジ原生群落の駐車場を、クマの出没を理由に一時閉鎖していた。2026年5月20日の午後に付近で目撃情報があり、閉鎖が解除されたのは6月17日である。沼津市も、鈴や笛など音の出るものを携帯して自分の存在を知らせること、クマの活動が活発な早朝と夕暮れにとくに注意することを挙げている。登山口まで車で上がれる手軽さと、そこから先の山の性格は別の話である。
四つの市町にまたがる山へ
愛鷹山のアクセスは、山塊が四つの市町にまたがっているぶん、目指す峰によって入口がまるで変わる。越前岳・黒岳側は裾野市が窓口で、東名裾野ICから車で約20〜25分、公共交通ならJR三島駅からバスで約1時間30分。位牌岳と、南端の一峰としての愛鷹山は、沼津市と長泉町の側から入ることになる。
2026年9月時点で気をつけたいのは、その南側だ。長泉町は愛鷹山水神社付近で発生した土砂災害のため、復旧作業として一部区間を通行止めにしている。告知は2025年12月23日の更新が最新で、解除の案内は出ていない。長泉町側は水と緑の杜公園まで通行可能で、水神社へは沼津市の「沼津ゴルフクラブ」沿いの道路から迂回するよう案内されている。位牌岳や愛鷹山を目指すなら、出発前に長泉町の工事管理課と沼津市側の最新情報を確認しておきたい。
装備は、標高ではなく地質に合わせて考えるのがいい。火山灰質の土は雨のあとや霜の融ける時期によく滑るので、グリップの効く登山靴とトレッキングポールが効いてくる。十里木高原ルートの案内に水場の記載はなく、水は自分で担ぐ前提になる。服装は、富士山の南面に正対する稜線が風の通り道になることを見込んで、季節を問わず防風の一枚を加えておく。登る時期としては、アシタカツツジの5月下旬から6月上旬と、空気が澄んで富士が一日じゅう見えている晩秋から冬が、この山の二つの山場になる。
富士山を真正面に置きながら、富士山に登るのとはまったく違う一日が手に入る。それが愛鷹山という山の値打ちだ。越前岳は、日本で最も見られている山を、最も近い距離から眺めるための展望台のような位置に立っている。半日で往復できるという事実は、この山の価値を下げる理由にはならない。