白い花崗岩の山、北アルプスの女王
燕岳は長野県安曇野市と松川村の境にそびえる標高2,763mの山で、北アルプス南部の常念山脈に属する。中部山岳国立公園の南東縁に位置し、「北アルプスの女王」という愛称で呼ばれてきた。深田久弥は『日本百名山』でこの山を取り上げ、山頂部の花崗岩が白く輝く稜線と、独特の岩のオブジェに彩られた景観を北アルプスの中でも特異な存在として記述した。山名は山頂付近に夏季に飛来する岩ツバメに由来するとされる。
燕岳の魅力は、純粋な標高や難易度よりも、山頂部の景観そのものにある。山頂周辺は風雨に削られた花崗岩の岩塔と砂礫帯が広がり、イルカ岩、メガネ岩、ゴリラ岩といった名のついた奇岩が稜線上に点在する。砂礫の白さとハイマツの濃緑、コマクサのピンクが組み合わさる夏の燕岳は、北アルプスのどの山とも違う色彩を持つ。技術的には初級〜中級の範疇に収まりつつ、稜線景観の完成度は北アルプスでも屈指という、稀有な位置を占める山だ。
合戦尾根、北アルプス三大急登のひとつ
燕岳ルートは基本的に一本、中房温泉から合戦尾根を詰める道に集約される。中房温泉(標高1,462m)から第一ベンチ・第二ベンチ・第三ベンチ・富士見ベンチ・合戦小屋・合戦沢ノ頭を経て燕山荘までの標高差約1,300m。「北アルプス三大急登」の一つに数えられる急峻な尾根で、樹林帯の中をひたすら標高を稼ぐ前半が体力的な核心になる。一方で道は手入れが行き届き、危険箇所は少ない。途中の各ベンチで休憩を取りながら、自分のペースで登れるルート設計になっている。
標準的な登山スケジュールは一泊二日。一日目に中房温泉から燕山荘まで約4〜5時間で登り、二日目に燕岳山頂を踏んで下山する。日帰り強行は標高差・距離ともに現実的でなく、燕山荘での一泊が前提となる計画になる。健脚者は二日目に燕岳から大天井岳まで足を伸ばし、再び燕山荘に戻って三日目に下山することもあるが、これは表銀座縦走の入り口に踏み込むラインで、距離が一気に伸びる。
合戦尾根の中間にある合戦小屋は休憩専用の小屋として知られ、夏季限定で名物のスイカが提供される。標高約2,350m地点で食べる冷えたスイカは、登山者のあいだで燕岳登山の象徴のひとつになっている。ここまで登ると樹林帯を抜け、稜線が近づく実感が出てくる。
イルカ岩、メガネ岩、コマクサ — 山頂部の景観
燕岳の真価は燕山荘から山頂までの稜線にある。燕山荘から山頂までは標高差約100m、距離約30分の道のりで、ザックを小屋にデポして空身で往復する登山者が多い。稜線は風化した花崗岩の砂礫が白く広がり、その合間に奇岩が点在する。イルカ岩はその名の通りイルカが空を見上げるような形状の岩で、燕岳の象徴として写真に最も多く撮られるランドマーク。メガネ岩は二つの穴を持つ岩で、北側と南側で異なる稜線景観が切り取られる。
山頂周辺の砂礫帯にはコマクサが自生する。コマクサは「高山植物の女王」と呼ばれる繊細なケシ科の花で、礫地に独立して咲く性質を持つ。7月中旬から8月にかけてが開花期で、白い花崗岩と濃いピンクのコマクサの組み合わせは、燕岳の稜線でしか見られない景観だ。コマクサは過去に乱獲で激減した時期があり、現在は保護対象として扱われている。稜線にはロープによる立ち入り規制が設けられ、撮影目的でも礫地に踏み込むことは厳禁とされている。
燕山荘、北アルプスで最も話題になる山小屋
燕岳登山を語るとき、燕山荘の存在を抜きにすることはできない。標高2,712mの稜線上に立つ燕山荘は1921年の創業で、北アルプスの中でも最も歴史ある山小屋の一つ。夕食のハンバーグ、生ビール、朝食の自家製プリン、夜のホルンの音色など、登山者のあいだで語り継がれる「山小屋らしくない」サービスを多数擁し、結果として燕岳に「燕山荘に泊まりに行く」目的で登る登山者が一定数いる、という独特の文化を生んだ。
燕山荘は収容人数約650名と北アルプスでも大型の小屋に分類されるが、お盆と紅葉期は数ヶ月前に予約が埋まる。完全予約制が定着し、当日飛び込みは原則受け付けられない。燕山荘の前のテラスからは槍ヶ岳の穂先が真正面に望める構図で、夕日が槍ヶ岳の岩稜を赤く染める時間帯は、稜線上に多くの登山者が出てカメラを構える。燕岳の宿泊計画は、燕山荘の予約が取れた日程から逆算して組むのが現実的だ。
表銀座縦走の起点、燕岳から槍ヶ岳へ
燕岳の南には大天井岳(2,922m)、東鎌尾根、槍ヶ岳と続く稜線がある。これが北アルプス縦走の代表ライン「表銀座縦走」で、中房温泉から登り始めて燕岳・大天井岳・東鎌尾根を経て槍ヶ岳に至り、上高地に下山する三泊四日の縦走として知られる。燕岳は表銀座縦走の入り口にあたる山で、一泊二日の燕岳ピストンを足慣らしとして、次年に表銀座縦走に挑む計画を立てる登山者は多い。
燕岳から大天井岳への稜線は、燕山荘から東へ蛙岩、大下りを経て切通岩、大天井岳までの約4時間。標高は2,700m前後を保ちながら稜線を辿る区間で、稜線の左右に北アルプスの3,000m峰群が展開する。表銀座縦走に踏み出すかどうかは、燕岳から先の稜線を見渡したときに自然と判断できる。燕岳に登るという行為は、北アルプスの一座を踏むことだけでなく、北アルプス縦走の世界への扉をくぐることでもある。
夏の四ヶ月、燕岳の季節と装備
燕岳の時期は、無雪期に関しては概ね6月中旬から10月下旬の四ヶ月強。北アルプスの3,000m峰群と比べてシーズンが長く、6月中旬から登山が可能になる。7月はコマクサの開花期、8月は最も登山者が多く山小屋の予約が必須、9月後半から10月上旬は紅葉が見頃で晴天率も高い。10月中旬以降は早朝に氷が張る日が出始め、降雪を見ることもある。11月下旬から燕山荘は冬季閉鎖に入り、稜線は冬山の領域になる。
燕岳の服装は2,700m級の長時間行動を前提に組む。夏でも稜線の朝晩は5〜10℃まで下がることがあり、フリースと防風防水のレインウェアは省けない。シューズはミッドカット以上の登山靴、ザックは一泊二日でも30L以上が標準。合戦尾根の急登が体力的な核心になるため、トレッキングポールがあると下りの膝が楽になる。燕岳のルートは技術的な核心は少ないが、標高差1,300mを一日で登る体力が要求される。普段から山歩きの習慣のない人は、事前に標高差800m程度の山で足慣らしをしておくと安心だ。
燕山荘から見る朝の槍ヶ岳は、燕岳に泊まる最大の理由のひとつになる。日の出前の薄明の中で槍ヶ岳の岩稜だけが先に紅く染まり、その後に空全体が明るくなっていく構図は、稜線に立つ朝の時間でしか得られない。同じ理由で、表銀座縦走で槍ヶ岳に向かう登山者は、燕山荘での一泊を縦走中で最も印象的な夜として記憶することが多い。
中房温泉、穂高駅からの一日
燕岳のアクセスは、JR大糸線穂高駅から南安タクシーまたは安曇野市営バスで中房温泉まで約1時間。シーズン中は穂高駅から中房温泉直行の登山バスが運行され、登山口までの移動が比較的容易だ。マイカーの場合、中房温泉手前の市営駐車場(第一・第二・第三駐車場)に駐車してそこから徒歩またはシャトルバスで登山口まで進む。中房温泉の駐車場は早朝には満車になることが多く、夏休み期間中は深夜のうちに到着するか、穂高駅起点で公共交通を使う計画が安全策になる。
首都圏からは新宿駅から特急あずさで松本駅まで約2時間半、そこから大糸線で穂高駅まで約30分。夜行バスもあり、当日早朝に穂高駅入りすれば一日目に燕山荘まで上がれる。下山後は中房温泉の日帰り湯で汗を流し、穂高駅周辺の安曇野で食事をしてから帰るのが定番のリズム。燕岳の登山は、合戦尾根の急登という体力的な明確な区切りと、燕山荘という稜線の宿、そして翌朝の山頂往復という、北アルプスの一泊二日の最も整った形を体験できる山として、長く愛されてきた。