江戸の街から見上げてきた山
大山は丹沢山地の東端、神奈川県伊勢原市・秦野市にまたがる標高1,252mの山である。丹沢の主稜(蛭ヶ岳・丹沢山・塔ノ岳)からはやや独立した位置に立ち、相模平野のどこからでも端正な三角錐の山容が見える。古くは「雨降山(あふりやま)」と呼ばれ、雨乞いの霊山として崇敬され、江戸時代には「大山詣り」が一大ムーブメントとなった。江戸庶民が講を組んで連れ立って登拝する文化が定着し、最盛期には年間延べ20万人を超える参詣客が訪れたと伝わる。現代でも参道沿いには大山豆腐の老舗と宿坊の系譜を引く先導師旅館が立ち並び、観光と登山と信仰が分離していない山として、首都圏の山岳のなかで独特の位置を占めている。
大山ケーブルカーから始まる定番ルート
大山ルートの主流は、表参道のこま参道・大山ケーブルカー経由で阿夫利神社下社(標高678m)まで上がり、そこから山頂を目指す構成だ。下社から山頂までは登り約1時間30分、下り約1時間、標高差は574m。階段状の本坂と、より歩きやすい女坂の選択肢があり、本坂は16丁目から28丁目までの石碑(丁目石)が登拝路の名残として並ぶ。
ケーブルカーを使わず徒歩で登ることも可能で、その場合はこま参道から大山ケーブル駅、男坂または女坂、下社、山頂、見晴台、阿夫利神社、ケーブル下と歩く「日帰り周回」がよく組まれる。距離約8km・累積標高差約900m・コースタイム約4時間半。首都圏で最も歩かれている日帰り登山コースのひとつで、秋の紅葉期と桜の時期は早朝から混雑する。下りに見晴台経由で阿夫利神社下社へ周回する道は、登りよりも視界が広く、相模湾を眺めながら歩ける構成になっている。
大山アクセスと小田急の改札
大山アクセスは首都圏の登山対象としては最良の部類に入る。新宿駅から小田急小田原線で伊勢原駅まで約1時間、伊勢原駅北口から神奈川中央交通バスで大山ケーブル駅まで約30分。新宿から登山口まで約1時間半、運賃も片道1,000円台という条件で、関東の登山対象としてはアクセスの最短距離をほぼ達成している。秋・春の登山シーズンには小田急の専用フリーパス(大山フリーパス)が販売され、ケーブルカー往復・バス・電車を含む割引価格で利用できる。
マイカーの場合は新東名伊勢原大山ICまたは東名厚木IC経由で15分。大山ケーブル駅周辺には市営駐車場(有料)が複数あるが、紅葉期と週末には朝7時台で満車になることが多い。可能なら公共交通機関を選んだほうが結果的に時間が短く済む。
阿夫利神社、宿坊、大山豆腐
大山ルートの起点・こま参道は約400m続く石段の商店街で、両側に大山独自の文化が密集する。大山豆腐は江戸時代から続く名物で、登拝者が精進料理として食したのが起源とされる。10軒以上の豆腐料理店が現在も営業しており、登山後の遅い昼食として湯豆腐や豆腐尽くしの会席を取れる。先導師旅館(御師旅館)は江戸時代の宿坊文化を引き継ぐ宿で、参拝者を神社へ案内する役割を担ってきた人々の家系が現在も営業している。
大山阿夫利神社の創建は紀元前97年と伝わり、2,200年以上の歴史を持つ。下社は標高678m、本社は山頂の標高1,252mに立つ。山頂直下の本社では現代でも宮司が日々祭祀を行っており、参拝者は山頂で正式に参拝してから下山する形が「大山詣り」の本来のリズムになっている。
大山の装備、服装、季節
大山の装備は、標高1,252mの稜線を歩く前提で組む。夏でも山頂気温は20℃前後、冬は氷点下になる日もある。化繊またはメリノの長袖、薄手のフリースかウィンドシェル、防水透湿のレインジャケットを基本セットとする。靴はくるぶしを覆うトレッキングシューズが必須で、本坂の石階段と上部の岩混じりの登山道では、運動靴では足首と膝への負担が大きい。
大山の服装は、季節幅を持たせて準備する。冬期(12月から2月)は山頂付近に積雪と凍結がある日があり、チェーンスパイクまたは軽アイゼンを念のため携行したい。大山の時期で特筆すべきは秋で、11月中旬から下旬にかけて阿夫利神社下社周辺のモミジが赤に染まり、夜間は「大山もみじライトアップ」も実施される。この期間は登山者と観光客が同じ参道に密集するため、登山開始時刻を早めに設定する。水場は登山道上にないため、最低1Lを担ぐ。
大山ケーブルカーは1965年に初めて運行を開始した。現在の車両は2015年に「大山ケーブル」「阿夫利」「丹沢」「相模」「大山」「秩父」「箱根」と並ぶ景観を意識した色彩でリニューアルされ、観光案内ともなっている。所要時間6分、片道630円(2025年現在の運賃水準)。
山頂から、相模湾と新宿のスカイライン
大山の山頂(本社)は東西に細長い広場で、東側に視界が大きく開ける。晴天時には、東京湾、新宿副都心、東京スカイツリー、相模湾と江の島、富士山と丹沢主稜までを一望できる、関東の低山のなかでは群を抜いて広い眺望を持つ位置取りだ。江戸時代の浮世絵に描かれた「大山頂上からの江戸眺望」は、現代でもほぼ同じ景色として再現できる。
下山後は大山の参道で大山豆腐を食べ、伊勢原市街地に降りて温泉宿で湯に浸かるルーティンが定型だ。次に丹沢の山を続けるなら、ヤビツ峠から表尾根を経て塔ノ岳・丹沢山に至る縦走、あるいは大山の北側の三ノ塔・烏尾山が自然な選択肢になる。大山は丹沢の入り口の山であり、ここから丹沢の主稜を歩き始めた登山者は数えきれない。最初の一座として、これほど信仰と登山と観光が並走している山は関東にほかにない。