鍋焼きうどんを食べに登る山
鍋割山は神奈川県秦野市・松田町・山北町の境にまたがる標高1,273mの山で、丹沢山地南部に位置する。塔ノ岳(1,491m)・丹沢山(1,567m)と尾根続きの位置にあり、首都圏のハイカーにとっては丹沢の代表的な日帰り登山対象として古くから親しまれてきた。「鍋割山に登る」と言えば、ほとんどの場合「山頂で鍋焼きうどんを食べる」が含意されるほど、山頂の鍋割山荘が供する熱々の鍋焼きうどんがこの山の代名詞になっている。
山名の「鍋割」は、形状由来とする説と、信仰由来の地名とする説がある。地元では「三ノ萱(さんのかや)」の別名も今に伝わる。山頂は南北に細長く広い平坦地で、晴天時は南から西にかけて視界が大きく開け、富士山と相模湾を同時に望める。標高は1,273mと首都圏の中級山岳の典型値で、丹沢山地で最も「明るく開放感のある山頂」と称されることも多い。
鍋割山ルート、二俣から後沢乗越
鍋割山ルートで最もよく使われるのは、大倉登山口(標高290m)から二俣・後沢乗越(うしろざわのっこし)を経由するルートだ。大倉から西山林道を歩いて二俣(標高約540m)まで約1時間20分、そこから後沢乗越を経て鍋割山頂まで約2時間30分。二俣には鍋割山荘のための水ボッカ用ペットボトルが積まれており、登山者が自主的に山頂まで水を担ぎ上げる慣習が長年続いている。水場のない山頂小屋を地元のハイカーが共同で支える、首都圏では珍しい登山文化だ。
もう一つの主要ルートは、寄(やどりぎ)バス停(標高約290m)からの寄ルート。櫟山(くぬぎやま)・栗ノ木洞を経由して後沢乗越に出て鍋割山に至る。登り約3時間30分。大倉ルートよりも長く距離があるが、序盤の樹林帯の雰囲気が良く、鍋割山を静かに登りたい人に好まれる。
縦走を組むなら鍋割山 → 小丸 → 大丸 → 塔ノ岳の稜線歩きが古典だ。鍋割山頂から塔ノ岳まで約2時間。塔ノ岳までつなげば、下山は大倉尾根(バカ尾根)でゴール、または尊仏山荘に泊まって翌日丹沢山方面に進む。鍋割山と塔ノ岳をセットで踏む日帰り周回(大倉→二俣→鍋割→小丸→塔ノ岳→大倉、約7〜8時間)は、首都圏の中級者向け定番コースとして広く歩かれている。
鍋割山アクセス、新宿から日帰りで
鍋割山アクセスは、丹沢山地のなかでも特に首都圏から近い。新宿から小田急線で渋沢駅まで約1時間20分、駅前から神奈中バスで大倉登山口まで約15分。寄ルートを使う場合は、新松田駅から富士急湘南バスで寄バス停まで約25分。新宿を朝6時半に出発すれば8時半には大倉登山口に立てる計算で、鍋焼きうどんの注文締切(鍋割山荘では概ね14時頃まで)に余裕で間に合う行程が組める。
マイカーの場合は大倉の県立秦野戸川公園駐車場(200台以上)または二俣手前の駐車スペース(少数)が起点になる。週末早朝6時には大倉の駐車場が満車になることがあり、特に紅葉期と新緑期は7時前に到着しておくのが安全だ。寄ルートの起点には民間駐車場が点在している。鍋割山荘では鍋焼きうどんが14時前後で完売することがあるため、行動時間の組み方は「12時までに山頂着」を目標にするのが標準的だ。
鍋割山荘と、水ボッカの文化
山頂の東側に立つ鍋割山荘は通年営業の小屋で、小屋番の草野延孝氏が長年経営を続けている。草野氏は1980年代にアコンカグア、インドヒマラヤ・サトパント峰、ダウラギリI峰などの遠征に参加した経験を持ち、丹沢の小屋主としては異色のキャリアを持つ人物だ。鍋割山荘の鍋焼きうどんは小屋の名物として全国の登山雑誌・テレビ番組で繰り返し紹介されてきた。卵入り・天ぷら入りの熱々の鍋を、山頂のベンチで富士山を見ながら啜るという体験は、首都圏の登山入門者の通過儀礼と化している。
鍋割山荘の特徴のひとつが、登山者による水ボッカ(歩荷)の文化だ。山頂に水場がないため、二俣に置かれた2Lのペットボトルを登山者が任意で担いで山頂まで運び上げる。担いだ水は鍋焼きうどん・コーヒー・宿泊客の生活用水に使われる。誰も強制せず、誰でも参加できるが、ベテランほど無言で1本2本と担ぎ上げる。山頂で「水ありがとうございました」と小屋番に声をかけられると、鍋焼きうどんの味が確実に変わるという体験が、この山の常連層を支えている。
山頂、富士山、相模湾
鍋割山の山頂は南北に細長い平坦地で、ベンチとテーブルが多数設置されている。丹沢山地で最も広い山頂広場の一つで、休日昼時には100人以上のハイカーが各々の鍋焼きうどんを啜っている光景が広がる。視界は南西方向に大きく開け、晴天時は富士山が稜線越しに真正面、その左手には相模湾、湘南海岸、伊豆半島まで見渡せる。
塔ノ岳のように360度の大展望ではないものの、鍋割山頂は明るく南斜面の日当たりが良いため、冬場でも体感的な寒さが軽い。1月から2月の晴天日は富士山が冠雪して最もシャープに見え、午前中の早い時間帯は霜が降りた稜線と冠雪富士のコントラストが美しい。
鍋割山の装備、服装、季節
鍋割山の装備は、首都圏の中級山岳として組む。標高は1,273mと中程度だが、大倉から二俣・後沢乗越を経由して山頂までの累積標高差は約1,000m、所要時間も4時間近くかかるため、「軽登山」と侮ると体力的に消耗する山だ。ミッドカットのトレッキングシューズ、20〜30Lのザック、長袖と防水透湿レインジャケットを基本セットとする。水ボッカに参加するならザックの容量と重量配分を意識しておく。
鍋割山の服装と季節について、推奨される登山シーズンは1年を通じて。最も人気が高いのは4月の新緑、11月上旬の紅葉、1〜2月の富士山が冠雪する冬晴れの時期だ。冬は標高1,000m以上で凍結と部分積雪があり、12月から3月はチェーンスパイクを携行しておくのが安心。夏は標高が低く湿度が高いため熱中症対策と早朝出発が必須で、丹沢山地の他のエリアと同様にヤマビルも下部で活動する。鍋割山荘の鍋焼きうどんとコーヒーがあるため食料は最小限で構わないが、鍋焼きうどんが売り切れたときの保険として行動食を持つのが地元ハイカーの常識だ。
鍋割山荘の鍋焼きうどんは、現地で初めて出会った人にとって「観光地のうどん」ではない。具材は油揚げ、かまぼこ、卵、天ぷら、しいたけ、長ネギ、ほうれん草など盛りだくさんで、出汁は丁寧に取られたしっかりした味。「山小屋で麺を茹で、出汁を温め、卵を割って客に出す」という極めて単純な工程を、毎週末数百食、何十年にもわたって維持し続けている事実そのものが、この鍋焼きうどんの価値の源泉になっている。営業時間は小屋の判断によって変動するため、出発前に小屋のサイトまたはSNSで最新情報を確認するのが定石だ。
塔ノ岳、丹沢山、檜洞丸へ
鍋割山を踏んだ次は、稜線続きの塔ノ岳(1,491m)が定番だ。鍋割山頂から小丸・大丸を経由して塔ノ岳まで約2時間。塔ノ岳まで足を延ばせば、富士山・相模湾・南アルプス・八ヶ岳を一望する360度の大展望が手に入る。鍋割山と塔ノ岳を一日で踏む周回は丹沢の入門縦走として人気が高い。
さらに北へ進めば、百名山の丹沢山(1,567m)が控える。塔ノ岳から1時間40分、みやま山荘で一泊する一泊二日プランで踏める。西丹沢に視野を広げれば檜洞丸(1,601m)が5月下旬から6月上旬にかけてシロヤシオとトウゴクミツバツツジで彩られる花の名峰だ。鍋割山は単独で「鍋焼きうどんのための山」として登っても満足できるが、丹沢山地全体を歩く流れのなかでは、丹沢を本格的に味わうための入口として位置づけられている。