檜という名の沢から
檜洞丸は丹沢山地の西部、神奈川県相模原市緑区と足柄上郡山北町の境に立つ標高1,601mの山である。山名は、山頂の南東面から南へ流れ下って玄倉川に注ぐ「檜洞」という沢に由来するとされる。丹沢では「洞」が沢と同じ意味で使われるから、檜洞丸とは要するに「檜の沢の山」ということになる。別名を青ヶ岳といい、山頂の東に建つ山小屋はこちらの名を継いでいる。同じ山が沢の名と峰の名の二つを持っているあたりに、この山と人との関わりかたが残っている。
丹沢は1965年3月25日に丹沢大山国定公園に指定された山域で、県立丹沢大山自然公園と合わせた面積は38,927haにおよぶ。神奈川県によれば、この広い山塊のなかで標高1,500mを超える山は9座しかない。檜洞丸はその一座であり、県最高峰の蛭ヶ岳(1,673m)とは主稜線一本で結ばれている。年間26〜31万人(2007年の丹沢大山総合調査)が歩く丹沢のなかで、檜洞丸は塔ノ岳や大山のような日常的な山ではなく、「西へ一日かけて行く山」という位置を占めてきた。
ゴーラ沢を渡ってからが本番
檜洞丸ルートの本命はツツジ新道である。1962年に山北町側の山麓から山頂への最短路として開かれた道で、いまも五本ある登山路のうち最も多く歩かれている。起点は西丹沢ビジターセンター。登山口情報サイトが示す標準コースタイムは登り3時間45分、下り2時間20分。ビジターセンター周辺の標高はおよそ540mなので、山頂まで1,000mを超える標高差を登ることになり、丹沢の日帰りとしては上のほうに入る。
このルートの性格は、ゴーラ沢出合ではっきり切り替わる。そこまでは沢沿いの穏やかな道だが、白い石が積み重なる出合では石伝いに沢を渡る渡渉があり、渡り終えた階段のすぐ先に鎖場が待つ。増水時にこの渡渉が渡れなくなることがあるのが、檜洞丸に登るうえで最初に考えておくべき条件になる。前日までの雨量を見てから出るか出ないかを決める、という判断が必要な登山口は丹沢でもそう多くない。
展望園地を過ぎてからも登りは終わらず、山頂が近づくにつれて木の階段が断続的に現れる。距離のわりに標高を一気に稼ぐ後半で、登りでは息が上がり、下りでは膝に効く。石棚山稜を玄倉側から詰める道や、犬越路から主稜を伝う道もあるが、どちらもツツジ新道より長い。檜洞丸から東へ、臼ヶ岳を越えて蛭ヶ岳へ続く丹沢主稜の縦走路は丹沢でも屈指の長丁場で、日帰りの延長線では組めない領域に入る。
ツツジ新道で登り、犬越路を経て用木沢出合へ下る周回は、檜洞丸を一日で味わう組みかたとして定着している。ただし西丹沢は沢沿いに道が付いている区間が多く、この一帯は大雨のたびに橋や道が傷み、長期の通行止めを経て復旧する箇所が出る。周回で計画するなら、往復で計画するとき以上に、事前の登山道情報の確認が前提になる。
五月下旬の、二週間ほどのために
檜洞丸の季節は、五月下旬から六月上旬に集約される。この時期にトウゴクミツバツツジとシロヤシオが同時に咲き、丹沢でもツツジの名山として名が通ってきた。ツツジ新道という道の名は、この二週間ほどのために付けられたようなものだ。シロヤシオは白い花を横向きに開き、葉が五枚輪生することからゴヨウツツジとも呼ばれる。その白と、トウゴクミツバツツジの紅紫が同じ尾根に並んだときの色の落差が、檜洞丸の五月の印象を決めている。
見ごろは標高で確実にずれる。神奈川県のパークレンジャーが残した令和5年(2023年)の開花記録では、5月10日の時点で山頂から熊笹ノ峰の間はほぼつぼみ、5月18日につつじ新道の標高約1,500m付近でシロヤシオの開花が確認され、5月21日には標高約1,200m以上でトウゴクミツバツツジが見ごろになっている。つまり同じ日に登っても、登り始めと山頂とでは花の進みが一週間分ほど違う。年によって全体が前後するので、同じ県のページで当年の記録を確かめてから日を決めるのが確実だ。
花期を外した檜洞丸が退屈かというと、そうでもない。梅雨に入れば山頂部は霧に沈み、立ち枯れた幹のシルエットだけが浮かぶ。秋は丹沢の主稜が見通せる日が増える。ただし、この山にわざわざ一日を使う人の多くが五月下旬を選ぶのは事実で、その二週間の駐車場とバスの混みかたは、他の時期とは別の山のようになる。
立ち枯れたブナの下で
檜洞丸の山頂部はブナ林に覆われている。「檜洞丸のブナ林」はかながわの美林50選に選ばれた森でもあり、山北町と相模原市緑区にまたがって広がっている。ところが、いま山頂部を歩く人がまず目にするのは、健全な森ではなく立ち枯れた灰色の幹である。
丹沢のブナ林の衰退は1980年代から問題になっており、大気汚染物質や酸性雨・酸性霧、ブナハバチによる食害などが原因として挙げられてきた。そこにニホンジカの食圧が重なって林床の下草が減り、雨のたびに土壌が流れ出す。神奈川県は2011年度のニホンジカの推計生息数を3,000〜5,500頭としており、県はブナの衰退度の判定や樹木の生理活性を測る調査を続けている。檜洞丸の立ち枯れは、この山だけの偶然ではない。
山頂直下に敷かれた木道は、この失われつつある林床をこれ以上踏ませないための設備でもある。檜洞丸の山頂は、展望が四方に開けた頂ではない。木道とベンチと、疎らな立ち枯れの幹があるだけの、奇妙に静かな平坦地だ。その静けさの理由の一部が森の衰弱にあると知っているかどうかで、同じ場所の見えかたはかなり変わる。
山頂から七十メートル、青ヶ岳山荘
山頂の東70mに青ヶ岳山荘が建つ。山の別名をそのまま名乗る小屋で、1961年に山頂直下に建てられたとされる。収容は35人。山と溪谷オンラインの小屋情報では2週間から3日前までの予約を求めており、飛び込みで泊まれる小屋ではない。丹沢の日帰り圏にありながら泊まれる場所がある、という条件は、主稜の縦走を組むときにも、五月の朝いちばんの尾根を狙うときにも効いてくる。営業の状況や予約の手段は変わりうるので、泊まるつもりなら小屋に直接あたっておきたい。
注意しておきたいのは水である。小屋の情報では水場は「なし」と明記されており、ツツジ新道にも稜線上にも当てにできる水場はない。檜洞丸の装備で最初に決めるべきは、担ぎ上げる水の量になる。夏場の日帰りなら2リットル前後を持つ計算になり、それがそのままザックの重さとして後半の階段に効いてくる。日没後の行動を避けたいルートでもあるので、ヘッドランプは季節を問わず入れておきたい。
服装は標高1,600m級の丹沢として組む。花期の五月下旬でも稜線の朝は冷え、風が抜ける日には薄手の防風着が要る。梅雨に入ると山頂部は霧に包まれる日が増え、レインウェアは雨具というより防寒着として働く。足元は、ゴーラ沢の渡渉と山頂直下の階段を考えれば、濡れた木と岩でソールの効く登山靴を選んでおくのが無難だ。
バスの終点が、そのまま登山口になる
檜洞丸のアクセスは、公共交通が素直に効く。小田急線の新松田駅から西丹沢ビジターセンター行きの路線バスが一時間強で入っており、その終点がそのまま登山口になる。マイカーなら、ビジターセンターの駐車場が舗装10台に路肩25台で、駐車料金は無料とされる。シーズンの週末は早い時間に埋まる。バス終点という条件は便利さと同時に制約でもあって、下山時刻を最終バスから逆算して組むことになる。
西丹沢ビジターセンターの開館は朝8時30分から。冬期は閉まるのが早く、月曜と年末年始は休みになる。ここで当日の登山道の状態を確認してから取付くのが、この山の作法として定着している。バスを降りてから県道を歩く数百メートルが、そのまま準備の時間になる。
2026年9月時点で、西丹沢の登山道情報は神奈川県パークレンジャーのページに区間ごとのPDFとして随時掲載されており、更新のたびに日付が入れ替わっていく。丹沢は沢沿いに道が付いている区間が多く、大きな雨のたびに橋や道が傷む。檜洞丸登山を計画するときは、コースタイムを調べるより先にこのページを開くほうがいい。花の時期も、渡渉の可否も、周回が組めるかどうかも、結局はそこに書かれている情報から決まる。