白馬が立つ、なだらかな頂
陣馬山は東京都八王子市と神奈川県相模原市緑区の境にある標高855mの山である。都県境をたどってきた尾根がここでいったん盛り上がり、そのまま広く平らにほどける。相模原市観光協会は、頂が「広くなだらかである」ことから、この一帯が「陣馬高原」とも呼ばれると記している。樹林帯を抜けて最後の斜面を登りきると、視界を遮るものがほとんどない草地の台地に出る。関東の富士見百景、多摩百山、かながわの景勝50選、八王子八十八景に名を連ねているのは、標高の数字のためではなく、この開け方のためだ。実測値は854.8mで、自治体の案内が使う855mという数字はこれを丸めたものである。
その草地の中央に、白い馬の像が一頭立っている。土地の伝承や信仰から生まれたものではない。1960年代後半、京王帝都電鉄(現・京王電鉄)がこの一帯を観光地として売り出すにあたって、山の象徴として建てたものだ。企業の販促から出発した造形物が、半世紀を越えて山そのものの代名詞になってしまった例は、そう多くない。像の足元に立って振り返れば、藤野観光協会が挙げるとおり、条件のよい日には富士山や丹沢山塊、秩父山系はもとより、遠く筑波山や房総半島までが視界に入る。何もない草地に、人工物がひとつだけ置かれている——陣馬山の写真がどれも似た構図になるのは、この配置の強さによる。
陣場か、茅場か
山名の由来は一つに定まっていない。神奈川県は、戦国時代に武田信玄がこの地を軍事拠点としたという説をもっとも有力なものとして紹介している。ほかに、北条氏の滝山城を攻めた武田勢がここに陣を張ったとする説、カヤの刈り場を意味する「茅場(かやば)」が転じたとする説も併記されてきた。頂が広く、木がなく、一面の草地であるという事実は、軍勢が布陣した情景にも、麓の人々が屋根材のカヤを刈り集めた情景にも、等しく説得力を与えてしまう。地形が由来を決められないでいる、と言ってもいい。白馬の像は、そのうち「馬」という表記だけを選び取って形にしたことになる。
藤野から、尾根をひとつ選ぶ
陣馬山登山のもっとも一般的な入り口は、神奈川県側のJR中央本線・藤野駅である。駅から神奈中バスで「陣馬登山口」へ入り、そこから山頂までは徒歩1時間40分と神奈川県は案内する。バス停から集落を抜けて一ノ尾尾根に乗ってしまえば、あとは頂まで尾根一本をたどることになる。登りに一ノ尾尾根、下りに栃谷尾根と使い分ける組み立てが定着しているのは、どちらの尾根も藤野の集落から頂へ直接突き上げていて、麓で輪が閉じるからだ。
もう一本、相模原市が「陣馬山コース」として公式に案内する道がある。JR相模湖駅から与瀬神社まで徒歩15分、そこから明王峠まで2時間15分・4キロ、明王峠から山頂まで50分・2キロ。下りは二択で、Aコースは栃谷休憩所へ1時間30分・5.5キロ、さらに30分・2.5キロでJR藤野駅に出る。Bコースは和田の里へ1時間下り、そこからバスで15分、歩けば1時間30分・5.5キロで同じ藤野駅に着く。全体で歩行距離は約13キロ、所要は約6時間。行政が想定する陣馬山のルートの標準形は、駅から歩きはじめて別の駅へ降りる、この日帰りの一本である。
陣馬登山口の近くには「陣馬のふもと観光駐車場」があるが、藤野観光協会によれば普通車8台と軽自動車専用1台。マイカーで入るなら、この規模がそのまま現実的な制約になる。トイレは登山口、和田バス停、和田峠、そして山頂に置かれている。頂に公衆トイレがあるかどうかは、広い草地で長居をする山では意外に効いてくる条件だ。
和田峠の三十分と、高尾からの一日
陣馬山は、頂に立つまでに要する時間の幅が極端に広い山でもある。最短は東京側の和田峠から。車で峠まで上がってしまえば、登り30分・下り20分で往復が済んでしまう。峠には有料の駐車場と茶屋があるが、収容には限りがあり、行楽期の週末に確実に停められる規模ではない。舗装路を自転車で詰めてくる人も多く、登山者と、峠を目指すサイクリストと、車で来て30分だけ歩く人とが、同じ舗装路の終点で混ざり合う。
対極にあるのが、高尾山から続く奥高尾縦走路だ。高尾山から小仏城山、小仏峠、景信山、堂所山、明王峠と都県境の尾根をつないでいくと、その先に陣馬山が現れる。相模原市の案内にある「明王峠から山頂まで50分・2キロ」は、この長い縦走の最後の区間にあたる。高尾山から歩き通した人にとって、樹林の切れ目から白馬の像が現れる瞬間は、単なる山頂到着ではなく、一日かけてたどってきた尾根が終わる合図になる。同じ855mの頂が、30分で来た人と、朝から歩いてきた人とで、まったく違う意味を持つ。
茶屋の湯気と、風の通る草地
山頂には茶屋が店を構えている。神奈川県の観光案内は、清水茶屋・信玄茶屋・富士見茶屋の三軒を名指ししている。ただし三軒がいつでも揃って開いているわけではない。営業日も営業時間も季節と曜日で動き、まとまった形で公表されているわけでもない。つまり、茶屋が開いていることを前提に計画を組んではいけない。水と行動食は自分で持ち上げる。開いていたら熱いものが飲める、という順序で考えるのが、この山では正しい。
季節の読み方も、標高より地形に引きずられる。855mは真冬でも一日中雪が残るような高さではない。ところが頂が広く開けている分、風を遮るものが何もない。樹林帯の登りで汗をかき、草地に出た瞬間に一気に冷やされる——この落差が陣馬山の服装を決める。低い山という印象のまま薄着で登ると、山頂での滞在時間だけが削られていく。脱ぎ着で調整できる中間着と、風を止める一枚を、装備の中に必ず入れておきたい。時期としては、相模原市観光協会が赤や黄に染まる秋の紅葉に触れており、空気が澄んで富士山が出やすいのも晩秋から冬にかけてである。
藤野観光協会は、山頂での焚火・直火を禁止し、テントを張ることも原則として認めていない。広く平らで居心地のよい草地だからこそ明文化されている決まりである。
下山の先にある、二つの駅
陣馬山へのアクセスは、都県境の山らしく東京側と神奈川側の二系統に分かれる。東京側はJR・京王の高尾駅北口から西東京バスで「陣馬高原下」へ入る系統で、所要は40分ほど。休日は朝のうちに数便が続き、日中はおおむね一時間に一本という間隔になる。陣馬高原下からは、陣馬街道の舗装路をたどって和田峠へ抜けることもできる。神奈川側は前述のとおり藤野駅から神奈中バスで陣馬登山口へ。登り口と降り口を違う県、違う路線に置けることが、この山の行程設計の自由度を支えている。
2026年9月時点で確認しておきたいのは、東京側のバスダイヤである。西東京バスは2026年春季ダイヤ改正を平日は4月1日、土曜・休日は4月4日から実施し、高尾駅と恩方地区を結ぶ区間について運行経路の変更と最終バス発車時刻の繰り上げを告知している。最終便が早まる路線を下山側に使うなら、行程の余裕は往路ではなく復路に積んでおくべきだ。ヘッドランプを携行するかどうかの判断も、この一点に懸かってくる。
陣馬山は、山としての難しさで人を選ぶ山ではない。選ばせるのは、どこから入ってどこへ降りるかという設計のほうだ。和田峠から30分で白馬の像に会いに行くのも、藤野の尾根を半日かけて詰めるのも、高尾山から尾根をつないで丸一日を使うのも、たどり着く草地は同じ一枚である。その一枚がどれだけ広く感じられるかが、歩いてきた距離によって変わる——奥高尾の終点に立つとは、そういうことだ。