湖の対岸に、いつも横たわっている山
奥多摩湖の北岸を走る道からは、対岸に長く横たわる稜線がずっと視界に入っている。御前山である。東京都西多摩郡奥多摩町と檜原村の境界に立つ標高1,405mの山で、多摩川南岸の大岳山・三頭山とともに奥多摩三山と呼ばれてきた。三山のちょうど中央に座り、単独の鋭峰としてではなく、大きな塊として湖の向こうに見えている。
この山は支峰として惣岳山(標高1,341m)を従えており、奥多摩湖から登る道は必ず惣岳山を踏んでから山頂へ向かう。山頂そのものの展望は限られていて、山と溪谷オンラインは南へ湯久保尾根を下ると丹沢方面の山々が見えると書いている。眺めのために登る山ではなく、森の中を長く歩いて高度を稼ぐ山だと考えたほうがいい。
奥多摩のこの一帯は秩父多摩甲斐国立公園に含まれる。環境省は同公園を「森林美と渓谷美であふれる 首都圏に最も近い森と渓谷の山岳公園」と掲げ、現地の管理は奥多摩自然保護官事務所が担っている。都心から電車とバスで入れる距離にありながら、主稜へ突き上げる尾根には「大ブナ尾根」の名が残る。落葉広葉樹の森が稜線まで続く山であり、里山の延長とは呼びにくい。
大ブナ尾根という、一本きりの登り
御前山のルートで最もよく歩かれてきたのが、奥多摩湖から大ブナ尾根をたどる道である。小河内ダムの堰堤に、この尾根の入り口がある。堰堤を渡ってすぐ樹林に取り付き、サス沢山、惣岳山と段を重ねて山頂へ抜ける。堰堤を離れてからは、ひたすら高度を上げる区間が続く一本道だ。
数字で見ると性格がはっきりする。YAMAPが載せる奥多摩湖バス停発着の往復は距離8.8km、コースタイム6時間05分、上りの累積標高差1,083mで、難易度は「きつい」。奥多摩観光協会がモデルコースとして挙げる行程は歩行距離約10.1km、行動時間の目安7時間00分としている。数字の幅は下山にどこを選ぶかの差だが、いずれにせよ累積で千mを超える登りを一日で処理する行程になる。標高1,405mという数字から受ける印象より、実際の御前山登山はずっと重い。
標高差そのものを削りたければ、稜線近くまで車で上がる手もある。YAMAPは月夜見第二駐車場を御前山の登山口の一つとして挙げている。ただしそこへ至るのは奥多摩周遊道路であり、山ではなく道路側の状況に行程を左右されることになる。逆にいえば、奥多摩湖から登る大ブナ尾根は、この山を最も正面から受け止めるルートだということでもある。
カタクリが咲くのは、木々が芽吹く前
御前山の名を春に押し上げているのはカタクリである。田中澄江の『花の百名山』に、この山は春のカタクリの名所として取り上げられている。山と溪谷オンラインも、山頂近くの雑木林の下生えにピンク色の花の群れが見られると書く。カタクリが咲くのは落葉樹がまだ葉を広げる前、林床にまっすぐ光が届く短い期間に限られる。つまりこの山の花の季節は、森が最も裸に近いときに来る。
YAMAPは4月下旬から5月上旬にかけて山頂付近でカタクリが咲き、一年を通して最も多くの登山者で賑わうと記している。この数週間の御前山は、登山というより花を見に行く行事に近い混み方をする。時期を外せば、同じ道が驚くほど静かになる。
花が終わったあとは、森そのものを見る山になる。東京都奥多摩ビジターセンターが2026年9月21日に更新した山の情報には、ヤマジノホトトギスやヤブミョウガ、クズが咲き、ノブドウの実が色づき、沢沿いのケヤキが色を変え始めた様子が書かれている。カタクリの列が消えたあとの御前山は、こうした地味な変化を追う場所に戻る。
山頂から先、どこへ降りるか
この山の構造上の面白さは、山頂に立ってから選べる下り道の多さにある。北へ下れば境橋を経て奥多摩駅方面、南へ尾根をつなげば湯久保尾根から檜原村の北秋川へ抜ける。山と溪谷オンラインは、奥多摩駅で下車して境橋から山頂を踏み、湯久保ノ頭から北秋川へ下って武蔵五日市駅まで歩く行程を、日帰りで歩き通せるコースの一つとして紹介している。登った側と反対側の谷へ降り、別の駅から帰る。奥多摩三山の中でも、この山はそういう歩き方が組みやすい。
北側の斜面には奥多摩都民の森、通称「体験の森」が広がる。御前山の北面は、そのまま歩道の整備された森林区画を含んでいるということでもあり、下山路の雰囲気は湖側の登りとかなり違う。ただし区画内の歩道は個別に通行止めになることがあるので、降り口を当てにするなら事前に状況を見ておきたい。
補給の条件は覚えておいたほうがいい。山頂にトイレはない。奥多摩観光協会は、このコース上のトイレは御前山から境橋方面へ15分ほど下った避難小屋だと案内している。その御前山避難小屋の横には水場があるが、大腸菌が確認されたとして煮沸のうえ使うよう伝えられている。行動中に飲む水は自分で担ぎ上げるのが前提になる、と読み替えるのが実際的だ。
ダムが閉じた夏のこと
御前山のアクセスの基本は、JR青梅線の奥多摩駅からバスに乗ることである。奥多摩観光協会によれば、奥多摩駅の2番バス乗り場から乗車時間約15分で奥多摩湖に着く。車の場合、奥多摩湖側には無料・小型約150台・大型可と案内される駐車場がある。都心から公共交通で入れて、なお登り応えが残っている。この二つが両立する山は多くない。
ところが2026年の夏、その入り口そのものが閉じた。東京都水道局のトピックス一覧には2026年8月14日付で「小河内ダム堤体上の通行止めについて」が掲載されている。大ブナ尾根の入り口は堰堤にあるのだから、堤体が通れない間、奥多摩湖から御前山に登るという最も標準的な選択肢は成立しなかった。
同じ一覧には、その後2026年9月10日付で「小河内ダム堤体上の通行止め解除について」が並んでいる。2026年9月時点では、堰堤は再び渡れる状態に戻ったとみてよい。9月21日に更新された奥多摩ビジターセンターの山の情報も、奥多摩湖から山頂までの登山道と奥多摩湖いこいの路の全線を、通行止めではなく「通行注意」として扱っている。長雨のあとで地盤が緩み、倒木や落枝への注意が呼びかけられている段階である。
御前山の入り口は、山の状態とは別の理由で開いたり閉じたりする。堰堤が通れなければ大ブナ尾根の取付はそのまま消えてしまう。出発前に東京都水道局の告知と奥多摩ビジターセンターの山の情報を、両方見ておきたい。
日没から逆算して歩く山
装備と服装の考え方は、この山の性格からほぼ自動的に決まる。奥多摩ビジターセンターは2026年9月の情報で、雨具、暖かい衣類や上着、そしてライトを持つよう呼びかけ、スマートフォンのライトでは代用にならないと釘を刺している。同じ情報は日没を17時45分とし、余裕を見て15時の下山完了を勧めている。累積で千mを超える登りを抱えた行程では、下山のペースが落ちた分がそのまま日没に食い込む。日が短くなる季節ほど、歩き出しの時刻が安全余裕そのものになる。服装も、湖畔と稜線の温度差、そして長い樹林帯での発汗を前提に組みたい。
同じ情報は、奥多摩周辺でここ最近ハチ刺され事故が6件あったことに触れ、秋は巣が大きくなり警戒心が強まる季節だと注意を促している。御前山の道は樹林帯が長く、藪の中の巣に気づかないまま距離を詰めてしまいやすい。春のカタクリの時期に比べて人が少ない分、異変に気づいてくれる他人も少ない。
標高だけを見れば、御前山は奥多摩の中堅である。だが湖畔から登れば累積標高差は千mを超え、山頂に水もトイレもなく、入り口はダムの都合で閉じることがある。花の時期には人の列ができ、それ以外は静かな落葉樹の森に戻る。湖の対岸からいつも見えているあの塊を、一日かけて自分の足で越えてみる。御前山という山の輪郭は、そこではじめてはっきりしてくる。