安曇野の里が名づけた山
蝶ヶ岳は長野県松本市と安曇野市の境に位置する標高2,677mの山で、飛騨山脈(北アルプス)を南北に走る常念山脈の一角を占める。中部山岳国立公園の区域に含まれる。山名は、五月から六月にかけて安曇野の平地から見える雪形に由来する。稜線に残った白い雪が蝶の羽の形に見え、里ではその出現を農事の目安としてきた。山の名が、登る側ではなく見上げる側の暮らしから付けられたことは、この山の性格をよく言い当てている。
山頂がどこを指すのかも、実のところ単純ではない。現在の最高点は長塀ノ頭の2,677mだが、蝶槍の南には2,664mの三角点峰があり、かつてはそちらが蝶ヶ岳と呼ばれていた。呼び名が先にあり、地図上の一点はあとから決まった山である。稜線へ突き上げる登路のひとつ「中村新道」を拓いたのは蝶ヶ岳ヒュッテのオーナーの祖父だと小屋自身が書いており、この山の道は里の側から引かれてきた。
三股から、力水とまめうち平を経て
蝶ヶ岳登山の中心にあるのは、安曇野側の三股から入る道である。蝶ヶ岳ヒュッテはこれを「最も一般的なルートで、夏山シーズンは特にオススメです」としながら、続けて「残雪期は雪崩、滑落の危険がありますので、十分に注意してください」と書く。推奨と警告が同じ一本の道に同居している。日本アルプス登山ルートガイドの計測によれば、三股から山頂までの距離は12.6km、登りの累積標高は1,483m、コースタイムは登り5時間10分・下り3時間10分。標高差の大半を、ほとんど樹林のなかで淡々と稼いでいく道だ。
駐車場からまず林道を歩き、ゲートの先の登山口に立つ。烏川上流の本沢に架かる吊り橋を渡った先に、力水と呼ばれる湧水の水場がある。ここから傾斜が本格化し、やがてまめうち平に出る。このコース唯一の平坦地で、樹林のなかにぽつりと開けた場所である。大滝山への分岐を分け、蝶沢を横切り、最後にハイマツ帯を抜けたところで、視界が唐突に開ける。
梓川の向こうに槍穂高が立つ
ハイマツを抜けた瞬間に何が起きるかが、この山のほとんど全部である。稜線の西側には梓川の谷が深く落ち込み、その向こうに槍ヶ岳から穂高連峰までの岩稜が横一列に並ぶ。あいだに遮るものが何もない。多くの山では槍穂高は縦走路の途中から断片的に見えるものだが、蝶ヶ岳ではそれが一枚の壁として正面に立ち上がる。梓川を挟んだ距離と、正対する角度。この二つが揃う席は常念山脈でも多くない。空気が澄んでいれば富士山や南アルプスまで見通せる。
稜線そのものは穏やかで、砂礫とハイマツのなだらかな起伏が続く。北端の蝶槍まで歩けば、そこは常念岳へ向かう縦走路の入口になる。山頂の一角は瞑想の丘と呼ばれ、展望のために足を止める場所として道が整えられている。急登を登りきった体で、何もしないでいられる稜線を持っていること。それがこの山の贅沢な部分だ。
蝶ヶ岳に泊まる理由は、ほとんど光の向きで説明がつく。蝶ヶ岳は槍穂高の東に位置するため、朝の光は登山者の背中から差し、正面の岩壁を色づかせる。逆に夕方は太陽が穂高の向こう側へ落ち、同じ稜線が黒い切り絵に変わる。半日で景色が反転する。日帰りが成立する山でありながら一泊を選ぶ登山者が多いのは、この反転を両方見るためである。
上高地から二本、残りは長さか経験を要求する
蝶ヶ岳ヒュッテが挙げる登路は六本ある。そのうち二本が上高地側から伸びる。横尾から入る道は「最短コースですが急登です」、徳沢から入る道は長塀山を越え、「つづら折りの急登から、樹林帯の長い稜線歩きとなります」と説明される。距離と傾斜を取り替える選択になる。残る三本は、安曇野市の三郷スカイライン終点から鍋冠山・大滝山を経てくる鍋冠ルート、樹林の稜線歩きが続く中村新道、そして「急なアップダウンがあり、ベテラン向きです」とされる常念岳からの縦走路。三股以外はどれも、長さか経験値のどちらかを先に要求してくる。
上高地を起点にする場合、山に入る前の段取りが一段増える。上高地は通年マイカー規制で、釜トンネルから先へ自家用車では進入できない。沢渡か平湯あかんだなの駐車場に車を置き、シャトルバスかタクシーへ乗り換えることになる。松本ICから沢渡までが約1時間、沢渡から上高地までが約30分。公共交通なら松本駅から上高地線で新島々駅へ出て、そこからバスかタクシーで約1時間30分という行程になる。三股の素っ気ない林道終点とは、入口の空気がかなり違う。
水が一リットル二百円の稜線
蝶ヶ岳ヒュッテは水を売る。宿泊・テント泊・日帰りを問わず一律1リットル200円で、その理由を小屋は「稜線に位置する蝶ヶ岳ヒュッテでは、近くに沢などもなく、水は大変貴重です」と説明している。三股ルートの力水は、つまり稜線に上がる前の最後の自然の水場ということになる。収容は30人から最大150名程度で、宿泊は1名からでも予約が必要。テント場は小屋の南側に約30張、こちらは予約を受け付けず当日先着順で、1名2,000円(税・トイレチップ込)。1泊2食は大人16,000円、素泊まりは大人11,000円が目安である。
営業期間は4月25日から11月3日まで。北アルプスの稜線の小屋としては早く開き、雪が本格化する前に閉じる。四月末の稜線はまだ残雪期で、同じ蝶ヶ岳登山でも七月の道とはまったく別物になる。ピッケルとアイゼンを前提にする時期と、薄手のシャツで歩ける時期が、ひとつの営業期間のなかに同居している。季節の選択がそのまま装備の選択になる山だと考えたほうがいい。夏でも、三股の林道が蒸し暑いのに2,600mの稜線では風が体温を奪う。登りながら脱ぎ、稜線に出てから着るという前提で持ち物を組むことになる。姉妹小屋である大滝山荘の営業が7月20日から8月31日までという短さも、この一帯で人が普通に過ごせる季節の幅を示している。
穂高駅から、林道の終点へ
蝶ヶ岳へのアクセスは、安曇野側ならJR大糸線の穂高駅が起点になる。穂高駅から三股登山口駐車場までは約15km・車で約35分、タクシーなら約40分・約7,000円からが目安とされる。駐車場は三股第1が約80台、森の広場(第2駐車場)が約100台、まゆみ池が約20台で、いずれも無料。ただし登山口までの徒歩時間はそれぞれ約15分(約700m)、30分(1.5km)、45分(2.5km)と開きがある。遅く着くほど、登り始める前の舗装路が長くなるという単純な構造だ。
2026年9月時点では、安曇野市が穂高駅と三股第一駐車場を結ぶ路線バス「三股線」を運行している。2026年度は7月17日から10月13日までのうち、土日祝日とその前後やお盆期間など63日間の運行で、運賃は全区間共通で大人2,000円、小学生以下1,000円。予約制で、受け付けは乗車日の二か月前の朝五時に始まる。市が掲げる目的は「林道への放置駐車の解消および市街地と三股登山口を連絡する自家用車以外の移動手段の確保」で、駐車場の台数に頼りきらない登山口の設計を探る試みでもある。なお三股へ通じる林道烏川線は冬季通行止めとなり、解除は春を待つ。解除日は年によって前後するため、安曇野市の発表で確かめたい。
2026年9月時点の現地情報。三股第1駐車場では中部電力の工事にともない、9月7日9時から9月16日17時までトイレの停電が予定されている。携帯電話はドコモ・auとも繋がりにくいとされる。林道の通行状況・バスの運行日・小屋の予約状況はいずれも年ごとに変わるため、出発前に安曇野市および蝶ヶ岳ヒュッテの最新情報を確認しておきたい。