鷲羽岳という山
鷲羽岳は富山県富山市と長野県大町市の県境に立つ標高2,924mの山で、北アルプス(飛騨山脈)のほぼ中心に位置する。深田久弥の日本百名山に選ばれており、北アルプスの中でも「深部の山」「奥北アルプス」の代表格として、ベテラン登山者から特別な敬意を払われてきた一座だ。
鷲羽岳は火山性の山で、約20万年前に活動を停止した火山の山体である。山頂直下の北東斜面には円形の鷲羽池(直径約100m、水深約15m)が今も残っていて、青く凹んだ火口湖を見下ろしながら山頂に立つ眺めは、日本の他の高山ではあまり見られない景観である。山名は、両翼を広げた鷲の姿に山容が似ていることに由来すると伝わる。
裏銀座縦走の中心という地位
鷲羽岳の存在感は、単独峰としての標高や形よりも、北アルプス縦走路の中での位置によって決まっている。北アルプスの主稜線は、北の烏帽子岳から南の槍ヶ岳まで連なるが、その中央部にあたる「裏銀座縦走路」の心臓部に立っているのが鷲羽岳である。
西に三俣蓮華岳、北東に水晶岳、南東にワリモ岳と続く稜線は、日本でも屈指の長く、エスケープルートが乏しい縦走区間で、最寄りの三俣山荘から烏帽子小屋、または雲ノ平・薬師沢へ抜けるにも最低半日を要する。「鷲羽に登る」とは「裏銀座を歩く」とほぼ同義であり、表銀座(燕岳〜常念〜槍ヶ岳)の華やかさに対して、裏銀座は深く静かな縦走として語られてきた。
登山ルートを選ぶ — 新穂高、高瀬ダム、折立
鷲羽岳には日帰り登山口が一つもない。主要なアプローチは三つで、いずれも入山から鷲羽岳山頂までに最低でも2日、標準で3日を要する。
最もポピュラーなのが岐阜県側の新穂高温泉ルートで、わさび平小屋から鏡平・双六小屋・三俣山荘を経て鷲羽岳に至る。1日目に双六小屋泊、2日目に三俣山荘で鷲羽岳をピストン、3日目に下山という3日行程が一般的だ。長野県側からは高瀬ダム(ブナ立尾根経由)で烏帽子小屋から野口五郎岳・水晶岳を経由する裏銀座縦走の本流ルートが取れる。富山県側の折立から太郎平・薬師沢・雲ノ平を経由するルートは健脚向けで、雲ノ平の高層湿原を味わいながら鷲羽岳へ抜けられる。
鷲羽岳のアクセスは、新穂高温泉まではJR松本駅から濃飛バスで約2時間、富山駅から特急バスで約2時間。高瀬ダムは大町市の信濃大町駅からタクシー(葛温泉から林道走行)で約1時間。折立は富山市から有峰林道経由で2時間半(夜間通行止め)。どの登山口でも、初日のアプローチで体力を残せるよう前夜泊推奨である。
鷲羽池とライチョウ、深部の自然
鷲羽岳の山頂直下に広がる鷲羽池は、火山起源の小さな凹形の青い火口湖で、訪れた人の多くがこの山の象徴的な景色として記憶する。山頂から池に降りる短いルートもあるが、足元が荒く転倒のリスクがあるため、山頂から見下ろすだけで十分だ。鷲羽池から北方に視線を伸ばすと、水晶岳・赤牛岳の連なりと、その奥に黒部川源流の谷が落ちている。
稜線一帯はライチョウ(特別天然記念物)の安定した生息地で、登山者が比較的少ないことも幸いし、繁殖期にはハイマツ帯で母鳥と雛が観察できる。高山植物相も豊富で、コマクサ、チングルマ、イワギキョウ、ハクサンイチゲなどが7月から8月にかけて稜線を彩る。三俣山荘から鷲羽岳のコースタイム1時間半の道はそのまま北アルプスのお花畑歩きでもある。
装備と心構え、雷と長期縦走の現実
鷲羽岳の装備は、本州の3,000m級稜線縦走と同等の本気の準備が前提となる。山頂部の気温は富山・大町市街より概ね15〜18℃低く、晴れて穏やかな夏でもフリースと風を切るシェルが必須。雨具上下、ヘッドランプ予備、ガスバーナーと食料、寝袋と水――各自が独立した装備一式を背負う。
鷲羽岳の登山で最大の現実的リスクは、北アルプス主稜線特有の午後の雷雨だ。稜線の遮蔽物はほぼなく、逃げ場が乏しい。気象庁の雷ナウキャストを朝必ず確認し、午後1時には三俣山荘に戻る計画を組むのが基本になる。雪渓と残雪は6月中旬から7月上旬に注意が必要で、特に水晶岳〜鷲羽岳間の北側斜面は7月半ばまで雪が残る。
鷲羽岳の服装で見落とされがちなのが、3,000m近い高度ゆえの紫外線と乾燥だ。日焼け止め、サングラス、リップクリーム、行動食の塩分は、3日縦走では体調維持に直結する。日帰り装備の延長で来ると、最終日に明らかにペースが落ちる山であることを覚えておきたい。
山頂からの眺め、そして再訪の山として
鷲羽岳の山頂は岩稜の小さなピークで、360度ほぼ遮るものなく北アルプスの主要峰が一望できる。真南に槍ヶ岳の鋭い穂、その背後に穂高連峰。南西に笠ヶ岳、西に薬師岳。北東に水晶岳と赤牛岳、北西に黒部五郎岳。北アルプスの百名山のうち7座を一度に視界に収められる場所は、ここ鷲羽岳と水晶岳ぐらいしかない。
鷲羽岳の時期選びは、山小屋営業に合わせて7月中旬〜10月初旬がメイン。8月の盆過ぎからは混雑が和らぎ、9月中旬の紅葉期は鏡平から双六岳の稜線にかけてのナナカマドとダケカンバが鮮やかに染まる。雪を冠した鷲羽岳と鷲羽池を見るために10月初旬を狙う登山者も多いが、降雪と寒気のリスクが急に上がる時期でもある。
百名山のなかでも、鷲羽岳は「一度だけ登った人」と「何度も通う人」がはっきり分かれる山だ。新穂高から双六岳まで何度か通ううちに、その先の鷲羽岳と水晶岳に踏み込み、最終的に裏銀座を端から端まで歩きたくなる。鷲羽岳に登るとは、つまり北アルプスを深く歩く入り口に立つということでもある。