山頂が『面』で広がる百名山
美ヶ原は長野県松本市・上田市・小県郡長和町の境に広がる高原で、最高点は標高2,034mの王ヶ頭(おうがとう)。深田久弥が『日本百名山』に選定した一座だが、いわゆる『山頂を踏む山』とは構造がまるで違う。山頂部が東西約4km・南北約2kmの台地状に広がるため、登山者は王ヶ頭・王ヶ鼻(2,008m)・茶臼山(2,006m)の三つのピークを台地の散策路で結びながら歩く形になる。標高2,000mの稜線で『散歩』ができるという日本でも珍しい山だ。
高原の中心は美ヶ原牧場で、5月から10月まで約300頭の牛が放牧される。標高2,000mで放牧をしているのは、本州中部ではここくらいだ。台地の真ん中に立つ美しの塔(高さ6m、石造り、避難用)は霧の濃いときに登山者の道標となるよう1954年に建てられた。山頂感のないこの山に、それでも『目的地』としての像が必要だったという、美ヶ原ならではの装置だ。
美ヶ原ルート、徒歩か車か
美ヶ原ルートで最も整備されているのが、東側の山本小屋ルート(美ヶ原高原美術館・山本小屋ふる里館前駐車場、標高1,930m発)。台地の縁の山本小屋から美しの塔を経て王ヶ頭まで徒歩約1時間。標高差はわずか100m強で、ほぼ平坦な散策路を歩く感覚で最高峰に立てる。年配の登山者・観光客・カップル・家族連れの大多数がこのルートを取る。
南側の三城牧場ルートは本格的な登山者向けで、三城(みしろ)牧場登山口(標高約1,460m)から塩くれ場・百曲り園地・王ヶ頭を経て登る。登り約2時間30分、標高差約570m。樹林帯から高原台地への景観変化が美ヶ原で最もダイナミックなコースだ。さらに南西の武石峰(たけしみね)ルートや、北側の扉峠ルートを組み合わせれば、霧ヶ峰・八ヶ岳・北アルプスを結ぶ縦走の入り口としても機能する。
登山対象として徹底的に歩くなら、霧ヶ峰から美ヶ原まで縦走する中央分水嶺トレイル(八島湿原 → 鷲ヶ峰 → 三峰山 → 美ヶ原、所要2日)が古典コース。霧ヶ峰の湿原と美ヶ原の牧場という対照的な高原を、一本の稜線でつなげて歩ける希少なエリアだ。
美ヶ原アクセスとビーナスラインの恵み
美ヶ原アクセスは、車で行ける百名山として例外的に良い。1981年(昭和56年)のビーナスライン全線開通以降、標高1,930mの山本小屋まで自家用車で乗り付けられる稀少な構造を持つ。中央自動車道・諏訪インターチェンジから車山高原・霧ヶ峰経由で美ヶ原高原まで約1時間30分、または長野自動車道・松本インターチェンジから扉峠経由で約1時間。
公共交通の場合、JR松本駅前から松本電鉄・アルピコ交通バスで「美ヶ原高原」までシーズン直行便が運行される(夏季・紅葉期のみ)。三城牧場側はJR松本駅からタクシー約40分、または路線バスを乗り継ぐ。マイカー以外でも来訪可能だが、車で来る人と本気で登る人で動線がまったく違う山なので、自分がどの体験を求めるかで起点を選ぶことになる。
王ヶ頭、王ヶ鼻、茶臼山
美ヶ原で踏むべき三つの山頂は性格が異なる。王ヶ頭(2,034m)は最高点で、複数のテレビ・ラジオ送信所の電波塔が立つ。山頂の景観としては電波塔の存在が異質に映るが、長野県全域に放送を届ける拠点として実用設備が並んでいる。山頂のすぐ脇には王ヶ頭ホテル(標高2,034m)があり、本州最高所のホテルとして星空観賞の宿泊地として知られる。
西側の王ヶ鼻(2,008m)は美ヶ原の展望地として最も評価が高い。岩塊が突き出した先端から、眼下に松本平、その先に北アルプスの槍ヶ岳・穂高岳・常念岳・蝶ヶ岳が一直線に並ぶ。晴天の夕暮れに王ヶ鼻に立つと、北アルプスの稜線がオレンジに染まる時間帯は美ヶ原の体験のクライマックスになる。
東側の茶臼山(2,006m)は牧場の北東端の独立峰で、ここからは霧ヶ峰・八ヶ岳・浅間山・南アルプス・富士山まで視界に入る。王ヶ鼻と茶臼山では『どっちを向いているか』で見える日本の山が大きく変わる。三つを踏んで美ヶ原を一周する半日コースは、本州中部の山岳地理を高所から一望する展望台として、深田久弥が百名山に選んだ理由をそのまま体験することになる。
美ヶ原の装備、服装、季節
美ヶ原の装備は、山本小屋から王ヶ頭・王ヶ鼻を散策するだけならスニーカーに近い軽装でも歩ける。ただし標高2,000mは平地より気温が約12℃低いことを軽視すると痛い目を見る。夏でも稜線では薄手フリースが必要、強風時には防水透湿レインジャケットが体感気温を大きく変える。三城牧場や扉峠から登るなら、ミッドカットのトレッキングシューズと20Lザックが標準装備になる。
美ヶ原の服装と季節について、最盛期は7月から10月。5月から10月の放牧期間中は牛が台地のあちこちで草を食べる風景が見られる。9月下旬から10月上旬はカラマツの黄葉がビーナスライン沿いを染め、駐車場渋滞が発生するレベルで混雑する。11月から4月は積雪と凍結で道路が閉鎖され、ビーナスラインは冬季通行止めになる。冬の美ヶ原は本格的なバックカントリー・スノーシューハイキングの世界で、王ヶ頭ホテルが冬季も雪上車送迎で営業を続ける異色の宿として存在感を放っている。
王ヶ頭ホテルは標高2,034mに立つ本州最高所のホテルで、冬季は雪上車で宿泊客を送迎する。山頂直下のホテルから見る夜空・朝日・北アルプスの眺めは年間を通じて評価が高く、登山対象としてだけでなく『2,000mで眠る経験』を求める層に人気を集めている。深田久弥はホテル開業前の昭和20年代に三城牧場側から美ヶ原に登っており、王ヶ頭から見た北アルプスの眺めが百名山に選定する決定打になったと『日本百名山』に記している。
霧ヶ峰、蓼科、北アルプスへ
美ヶ原を踏んだ次の選択肢は、ビーナスラインで繋がる霧ヶ峰(車山、1,925m)と蓼科山(2,531m)だ。霧ヶ峰は美ヶ原と同じ高原型の百名山で、夏のニッコウキスゲ・冬のスノーシューが定番の体験。蓼科山は北八ヶ岳の最高峰で、車道から2時間で頂上に立てる。三つの百名山がビーナスライン沿いに並ぶこの構造は、車で繋ぐ百名山コースとして家族層・シニア層に長く愛されている。
本格派にとっては、王ヶ鼻から見た北アルプスを次の目標にする流れが自然だ。安曇野から登る常念岳・蝶ヶ岳、上高地から登る穂高連峰、新穂高から登る笠ヶ岳。美ヶ原で『北アルプスの稜線』を遠くから眺めたあとに、その稜線に自分で立つ瞬間がやってくる。美ヶ原は、山岳地理を学ぶ最良の展望台として、登山者の地図感覚を一段引き上げてくれる山だ。