霧ヶ峰という山
霧ヶ峰は長野県の中央部、諏訪市・茅野市・諏訪郡下諏訪町にまたがる広大な高原で、最高峰の車山(くるまやま、1,925m)を中心に、強清水・八島ヶ原湿原・物見岩を含む台地全体を指す。八ヶ岳中信高原国定公園の一部であり、日本百名山にも選ばれている。とがった頂を持つ独立峰ではなく、なだらかな草原の上に小さな丘がいくつも並ぶ、いわば「登る山」というより「歩く山」である。
霧ヶ峰の地形は約100万年前の火山活動で形成された溶岩台地で、上層は氷期に風化と植生で覆われ、現在のような草原となった。冷涼かつ強風で樹林が育ちにくく、結果として高層湿原と草原が広がる――この特殊な環境が、グライダー発祥地としての歴史と、ニッコウキスゲの大群落を同時に生んだ。
ニッコウキスゲの夏、霧ヶ峰の代名詞
霧ヶ峰の名を全国に知らしめているのが、車山肩から車山山頂にかけての斜面を埋め尽くすニッコウキスゲの群落である。例年6月下旬から7月中旬にかけて、標高1,800m前後の草原が黄色一色に染まる。一日花で午後にはしおれてしまうため、写真目的の登山者は朝のうちに車山肩に上がるのが定番になっている。
近年はニホンジカの食害で群落の規模が縮小し、自治体と地元ボランティアが鹿よけ柵を設けて保全している。柵の中と外で植生がまったく違うのを見ると、観光の風景がどれほど人為的に維持されているかが分かる。霧ヶ峰の時期選びは、キスゲのピークだけに偏らず、6月のレンゲツツジ、8月のマツムシソウ、9月のススキまで含めて考えると、再訪のたびに違う山に出会える。
車山肩から山頂へ、最短ルートの強み
霧ヶ峰の登山ルートで最もポピュラーなのが、車山肩(くるまやまのかた、1,820m)から車山山頂を経て肩に戻る周回コースだ。標高差はわずか100m、標準コースタイム1時間半、ハイキングの感覚で日本百名山を一座踏める。山頂には車山神社の小さな祠と気象レーダー、そして物見台があり、晴れていれば八ヶ岳・南アルプス・富士山・北アルプス・浅間山がすべて見える。
もう少し歩きたい人は、車山肩からスタートして蝶々深山・物見岩・八島ヶ原湿原をめぐる霧ヶ峰自然保護センター発の縦走コースが定番。標準4〜5時間で、草原・湿原・草原と植生の変化を体感できる。スキー場(車山高原スキー場、霧ヶ峰スキー場)のリフトを夏季ハイキング営業に転用している区間もあり、体力に合わせてリフト併用も可能だ。
霧ヶ峰のアクセスは、JR中央本線茅野駅または上諏訪駅から路線バス・タクシーで車山肩・霧ヶ峰インターチェンジまで30〜40分。マイカーならビーナスラインを使えば駐車場まで車で上がれ、登山口と観光駐車場の境界が事実上ない。これも他の百名山にはあまりない霧ヶ峰の特徴である。
八島ヶ原湿原と、もう一つの霧ヶ峰
車山だけ踏んで帰るのは、霧ヶ峰の半分しか見ていない。北西の八島ヶ原湿原(やしまがはらしつげん)は標高約1,630mに広がる本州最南の高層湿原で、国の天然記念物。一周約3kmの木道が整備され、ヤマドリゼンマイ、ワタスゲ、ハクサンフウロといった湿原植物が季節ごとに入れ替わる。湿原は1万2千年かけて泥炭が堆積した結果であり、車山の草原とは生態系が別物だ。
八島ヶ原湿原から南へ伸びる古道は、かつて中山道の脇往還として下諏訪と茅野を結んだ道で、現在もハイカーが「奥霧の小屋」を経由して車山方面へ抜けるのに使う。観光客が多い車山肩を避けて、八島から入って山頂で合流するルートは、霧ヶ峰の混雑を回避する裏技として知られる。
高原の風と雷、装備の判断
標高は1,925mと中級山岳の領域で、山頂は麓の諏訪より気温が10℃以上低いことが普通だ。夏の昼間でも風が強ければ薄手のフリースが要り、霧が出ると視界は一気に20メートル前後まで落ちる。山名のとおり霧の発生が多い山であることを忘れてはいけない。
霧ヶ峰の登山で最大の現実的リスクは、夏の午後の雷である。草原と湿原のため遮蔽物が乏しく、雷雲が発生したときに逃げ場が少ない。気象庁の雷ナウキャストを必ず確認し、午後2時以降に山頂を踏まない計画を作るのが基本になる。実際、霧ヶ峰の遭難統計は雷と低体温症が中心で、地形の難しさによる遭難は極端に少ない。
霧ヶ峰の服装は、夏でも長袖の上下と防風シェル、薄手のフリース、雨具上下が基本セット。日帰り装備のヘッドランプも、湿原の木道で道を外して時間を失った場合の保険になる。冬季は霧ヶ峰スキー場としてリフトが稼働するが、夏のハイキングコース部分はスノーシューでないと歩けない積雪量になる。雪の霧ヶ峰は美しいが、夏とは別物として準備が要る。
山頂からの眺めと、グライダー発祥の地として
車山山頂の眺めは、日本百名山の中でも屈指の360度展望である。東に八ヶ岳連峰、その先に富士山、南に南アルプス、西に中央アルプスと北アルプス、北に浅間山と妙高山。日本の主要山脈を一度に見渡せる場所はそう多くない。八ヶ岳の主峰赤岳の連なりは、空気の澄んだ朝に最も美しい。
もう一つ、車山に登ったら気づいてほしいのが、霧ヶ峰がグライダー発祥の地であることだ。昭和初期、霧ヶ峰の高原で日本初の本格的なグライダー訓練が行われ、現在も霧ヶ峰グライダー滑空場が稼働している。風と地形と高度差――霧ヶ峰の三つの条件は、登山者にとっての展望と、グライダー乗りにとっての上昇気流という、二つの形で同じ高原に意味を与えている。