奥秩父南端の名稜、初心者にも開かれた2,000m峰
大菩薩嶺は標高2,057m、山梨県甲州市と北都留郡丹波山村の境にそびえる奥秩父南端の山だ。秩父多摩甲斐国立公園に含まれ、雲取山と並ぶ奥秩父南部の代表峰として位置づけられる。深田久弥は『日本百名山』で大菩薩嶺を取り上げ、稜線に出てからの富士山と南アルプスの眺望を特に印象的に記述した。山頂自体は樹林帯に囲まれて展望はないが、山頂から南に伸びる稜線(雷岩〜大菩薩峠)は森林限界に近い開けた稜線で、奥秩父では稀な広大な眺望を提供する。
大菩薩嶺は首都圏に近接し、上日川峠(標高1,584m)まで車道とバスでアクセス可能なため、標高差約470mで山頂を踏める初心者向けの2,000m峰として、奥秩父の入門コースの代表になっている。一日で歩き切れる周回コースと、稜線の眺望、そして文学的背景の三つが揃った山として、首都圏の登山者に長く愛されてきた山だ。
上日川峠から、雷岩・大菩薩峠の周回
大菩薩嶺ルートで最も標準的なのが、上日川峠を起点とする周回コースだ。上日川峠(1,584m)の駐車場から福ちゃん荘までは林道を歩いて約20分。福ちゃん荘から唐松尾根を登って雷岩・大菩薩嶺山頂へ、稜線を南下して大菩薩峠を経て福ちゃん荘に戻る周回が王道。コースタイムで約4〜5時間、距離約8km。途中の雷岩から大菩薩峠までの稜線は、左手に富士山、右手に南アルプス、足元に大菩薩湖(上日川ダム湖)を望む、大菩薩嶺登山最大の見どころになる。
より歩き応えのあるルートとしては、麓の裂石(さけいし、標高約900m)から登る道がある。標高差約1,100m、コースタイムで登り5〜6時間。上日川峠ルートよりもはるかに長く、本格的な一日登山として組まれる。健脚者は裂石から登って大菩薩嶺・大菩薩峠を踏み、上日川峠に下りてバスで裂石に戻る縦走的な計画を組むこともできる。「楽に2,000m峰の眺望を得たい」なら上日川峠、「歩き応えのある一日を求めたい」なら裂石という、二つの選択肢が並立している。
大菩薩峠、中里介山の文学が刻んだ名前
大菩薩嶺と大菩薩峠を語るうえで、中里介山の長編小説『大菩薩峠』を抜きにすることはできない。1913年から1941年にかけて新聞連載された未完の長編小説で、全41巻、原稿用紙にして1万4千枚を超える日本文学史上最大級の長編として知られる。主人公の机龍之助が大菩薩峠で起こす事件から物語が始まり、幕末から明治への激動を背景に展開する大長編で、何度も映画化・テレビドラマ化されてきた。
大菩薩峠(標高1,897m)には、現在の介山荘(かいざんそう)の名はこの中里介山に由来する。峠には「妙見の頭」「親不知ノ頭」など物語の中で登場する地名が今も残り、文学の中で語られた地名が現在の登山地図にそのまま記載される稀有な山として、大菩薩嶺は文学愛好者にも知られた存在だ。登山者にとっても、大菩薩峠に立つという行為は、近代日本文学の一つの舞台に立つことと不可分になっている。
福ちゃん荘、介山荘、丸川荘 — 山小屋の選択肢
大菩薩嶺周辺の山小屋は数が限られている。福ちゃん荘は上日川峠から徒歩約20分、唐松尾根の登山口に立つ山小屋で、休憩・食事・宿泊が可能。介山荘は大菩薩峠の稜線上に立つ通年営業の山小屋で、稜線でのご来光や夜景を楽しみたい登山者の宿泊拠点になる。丸川荘は大菩薩嶺の北側、丸川峠に立つ静かな小屋で、裂石ルートを使う登山者の中継点。
大菩薩嶺は日帰り登山が基本の山であり、山小屋泊の必要性は雲取山ほど高くない。それでも介山荘の稜線泊は、標高1,897mから見る夕焼けの富士山と稜線の夜景を目当てに利用される。ピーク時の介山荘の予約は数週間前から望ましい。日帰り計画なら、上日川峠の駐車場に車を停めて午前中に登り、昼前後に下山する余裕のある一日が組める。
通年登山の山、季節と装備
大菩薩嶺の時期は、無雪期に関しては概ね4月から11月。上日川峠への林道は冬季閉鎖(例年12月下旬〜4月中旬)となるため、冬季は裂石からの登山となり標高差が大きく増える。冬季の稜線は雪と凍結があるため軽アイゼン・冬装備が必須で、初心者向けの山が一気に上級者向けに変わる。5月のツツジ、7〜8月の夏山シーズン、10月後半の紅葉、11月の冬枯れの稜線と、季節ごとに表情が変わる。
大菩薩嶺の服装と装備は、2,000m級の長時間行動を前提に組む。上日川峠ルートの周回でも、フリースと防風防水のレインウェアは省けず、シューズはトレッキングシューズまたはミッドカット以上の登山靴。ザックは日帰りなら15〜20Lで十分。稜線の雷岩〜大菩薩峠間は森林限界に近い開けた稜線で、悪天候時には風雨を直接受けるため、雨具と予備の防寒着は必携。冬季の登山では軽アイゼン・厳冬期用シェル・予備の防寒着が必須となる。
介山荘から見るご来光は、東に丹沢山塊と相模湾、南に富士山、西に南アルプスの白根三山、北に金峰山・雲取山という構図になる。日中の眺望と同じ景観を夜明けの光で味わえるのは、稜線上の介山荘に前泊した登山者だけの特権だ。新月期の夏の夜は天の川が稜線の上に流れ、首都圏に近い2,000m峰としては優れた星空観望地として知られる。
甲斐大和駅、上日川峠 — 首都圏からのアクセス
大菩薩嶺のアクセスは、JR中央本線甲斐大和駅から栄和交通バスで上日川峠まで約45分。マイカーの場合は上日川峠の駐車場まで車で入れる。上日川峠のバスは土日祝日中心の運行で、平日は本数が大幅に少ないため、平日登山なら塩山駅からタクシーを使うか、マイカー利用が現実的になる。裂石ルートはJR中央本線塩山駅から山梨交通バスで大菩薩峠登山口まで約30分、そこから徒歩で登山開始。
首都圏からは新宿駅から特急あずさ・かいじで甲斐大和駅まで約90分、塩山駅まで約90分。マイカーなら中央自動車道勝沼ICから30〜45分。首都圏から日帰り登山が現実的に成立する2,000m峰として、大菩薩嶺は初心者の入門山から経験者の練習山まで幅広く利用される。下山後は塩山温泉、はやぶさ温泉、勝沼のワイナリーで汗を流して帰路につくのが定番のリズム。大菩薩嶺に登るという行為は、稜線の眺望を味わうことであり、近代文学の舞台を歩くことでもある、密度の高い一日になる。