尾瀬の西の山
至仏山は群馬県みなかみ町と片品村の境にまたがる標高2,228mの山で、尾瀬国立公園の中核を成す尾瀬ヶ原の西端に位置する。越後山脈の南端、東に対面する燧ヶ岳(2,356m、福島県)と尾瀬を挟んで向かい合うように立ち、燧ヶ岳と並んで尾瀬を象徴する二つの山として日本百名山に選定されている。木道を歩く湿原観光と山頂を目指す登山が同じ国立公園で成立しているという珍しい構造を持つエリアだ。
至仏山の最大の特徴は、その地質にある。山体の大部分が蛇紋岩(じゃもんがん)から成る。蛇紋岩はマグネシウム・鉄分が多く、土壌が貧栄養になりやすい特殊な岩で、その上に成立する植生も独特だ。氷期の遺存種であるオゼソウや、蛇紋岩地特有のホソバヒナウスユキソウなど、日本でも至仏山と限られた数の山にしか自生しない高山植物が稜線を彩る。地質と植生の関係を体感できる希少な山として、植物学者と高山植物愛好家の聖地になっている。
至仏山ルート、鳩待峠が起点
至仏山ルートで最もよく使われるのは鳩待峠ルート(鳩待峠・標高1,591m発)だ。鳩待峠から原見岩・悪沢岳の肩・小至仏山(2,162m)を経て至仏山に至るルートで、距離4.5km、標高差637m、登り約3時間。下りは同じルートをピストンするのが現在の標準だ。途中、小至仏山の手前から右手に尾瀬ヶ原の湿原が広がり、足元には蛇紋岩特有の植物が次々と現れる。
もう一つの主要ルートが山ノ鼻ルート(山ノ鼻・標高1,400m発)で、尾瀬ヶ原の西端から至仏山東面の急斜面を一気に登る。距離2.9km、標高差828m。傾斜が急で蛇紋岩が滑りやすいため、現在は上り専用、下り禁止の一方通行規制が敷かれている。植生保護と滑落事故防止の両方が理由だ。
最も歩き応えがあるのは、鳩待峠 → 山ノ鼻 → 至仏山 → 小至仏山 → 鳩待峠の周回コースだ。鳩待峠から尾瀬ヶ原に下りて山ノ鼻まで湿原を歩き、そこから急登で至仏山に登り、稜線を経て小至仏山経由で鳩待峠に戻る。所要約7時間。尾瀬の湿原と至仏山の山頂を一日で繋ぐ古典コースで、尾瀬国立公園の地形と植生をひと続きに体験できるプランとして最も評価が高い。
至仏山アクセスと、入山時期の制限
至仏山アクセスは、新宿からJR上越新幹線で上毛高原駅まで約1時間20分、または高速バスで沼田駅まで約2時間30分。そこから関越交通バスで鳩待峠まで約1時間20分。マイカーの場合は戸倉駐車場に車を置き、シャトルバスまたは乗合タクシーで鳩待峠まで上がる。鳩待峠は通年マイカー規制(一部期間を除き)が敷かれており、戸倉での乗り換えが事実上必須になっている。
至仏山で最も重要なのは、登山可能な期間が他の百名山と大きく違うことだ。5月上旬から6月下旬までの約2か月間は植生保護のため全面閉山となる(年により日程は変動)。雪解け期の蛇紋岩は極めて滑りやすく、また高山植物の発芽期と重なるため、踏圧から植生を守る目的で閉鎖される。残雪期(4月中旬〜5月初旬)は雪山技術を持つ経験者に限り入山可能となり、本格的な登山シーズンは7月初旬から10月中旬までだ。出発前に必ず尾瀬保護財団の最新情報を確認するのが至仏山登山の最低限のルールになっている。
蛇紋岩、植物、滑りやすさ
至仏山に登る人が最も繰り返し聞かされるのは「蛇紋岩は滑る」という警告だ。蛇紋岩は表面が滑らかで、雨や雪解け水で濡れると氷より滑るとすら言われる。山ノ鼻ルートの急斜面で滑落事故が多発したため、上り専用規制が敷かれた経緯がある。鳩待峠ルートでも小至仏山から至仏山にかけての稜線では、湿った蛇紋岩で足を取られないよう特に注意が必要だ。
一方で、その蛇紋岩のおかげで至仏山には他の山では見られない高山植物が生える。オゼソウは氷期に北方から南下して尾瀬周辺だけに残った遺存種で、世界的にも稀少な種だ。ホソバヒナウスユキソウは蛇紋岩地に特化した日本固有種で、至仏山と谷川岳周辺にしか自生しない。7月から8月にかけて、稜線は蛇紋岩の白さと高山植物の色彩が混じり合う独特の景観に変わる。植生保護の規制があるのは、この景観を維持するためには規制せざるを得ないという現実があるからだ。
尾瀬ヶ原と至仏山、二つの楽しみ方
至仏山に登るもう一つの楽しみは、登頂後に尾瀬ヶ原に降りて湿原を歩けることだ。山ノ鼻に下りれば、東西約6km・南北約2kmの広大な高層湿原が広がる。木道を歩きながら、ニッコウキスゲ(7月中旬)、ミズバショウ(5月中旬〜6月中旬)、ワタスゲ(6月中旬〜7月中旬)など、季節ごとに変わる花の風景が連続する。湿原を西から東へ歩き、見晴に泊まり、燧ヶ岳側に向かうルート取りは尾瀬の古典的な周遊だ。
尾瀬ヶ原の中心部からは至仏山と燧ヶ岳の両方が見える。湿原を歩きながら振り返ると、自分が登ってきた、または今日登る至仏山の山容が水鏡に映る。山頂と湿原の往復が一つの旅として完結する作りになっているのが尾瀬の魅力で、至仏山登山は単独の山行ではなく尾瀬という大きなエリアを歩く一部分として位置づけられている。
至仏山の装備、服装、季節
至仏山の装備は、標高2,200m級の高山として組む。蛇紋岩対策が最大のテーマで、ソールが硬く凹凸の効いたトレッキングシューズが必須。スニーカーやソールがすり減った靴では危険度が大きく上がる。長袖、薄手フリース、防水透湿レインジャケット、ニット帽と薄手のグローブが基本セット。鳩待峠から尾瀬ヶ原を経由するなら、湿原の木道は雨で滑るため特に靴の選定が重要だ。
至仏山の服装と季節について、本格的な登山シーズンは7月1日前後から10月中旬までに限定される。それ以前は植生保護による閉山または残雪期で、一般登山者の対象外だ。7月から8月は花の最盛期、9月下旬から10月初旬は紅葉のピーク。山頂近くまで沢の水場はないため、夏季は1.5〜2Lを担ぐ。鳩待峠と山ノ鼻には休憩所と売店があるが、山頂までは飲料を補給できる場所はない。
深田久弥は『日本百名山』に至仏山と燧ヶ岳を同じ「尾瀬」の章にまとめて記述している。両者は単独で百名山に選ばれているが、深田の意識のなかでは尾瀬という一つの土地の二つの顔だった。湿原と山頂、燧ヶ岳と至仏山、福島県側と群馬県側という三組の対比が尾瀬の特異性であり、その地理を歩いて理解することが百名山としての尾瀬登山の本質である、というのが深田の主張だった。
燧ヶ岳、谷川岳、武尊山
至仏山を踏んだ次の選択肢は、まず尾瀬を挟んだ東側の燧ヶ岳(2,356m、福島県)だ。尾瀬ヶ原を東に歩き、見晴または尾瀬沼を経由して燧ヶ岳に登る一泊二日プランは、尾瀬を歩く百名山ハンターの古典コースになっている。至仏山と燧ヶ岳の両方を踏めば、尾瀬国立公園の山岳部を一通り体験したことになる。
もう一つの方向は、蛇紋岩繋がりで谷川岳だ。谷川岳の南東に広がる蛇紋岩地帯はホソバヒナウスユキソウが自生する数少ない場所で、至仏山と谷川岳をセットで歩くことで蛇紋岩植生の全体像が見えてくる。あるいは群馬県側に視野を広げれば、武尊山(ほたかさん、2,158m)と日光白根山という二つの百名山が控える。至仏山は尾瀬と上信越の山域を結ぶ要のピークでもある。