機織りの神が座る山
巻機山は新潟県南魚沼市と群馬県利根郡みなかみ町の境、三国山脈に位置する標高1,967mの山である。林野庁中越森林管理署の資料は、南魚沼市の東側、坂戸山・金城山から続く尾根の向こうに大きくそびえる秀峰と紹介し、古くから機織りの神様として信仰されていたことが山名の由来だと記している。
新潟県の紹介ページによれば、麓の清水地区には巻機権現が祀られ、地元の人々はこの山を織物という生業の支えとしてきた。山頂部の一角が「御機屋(おはたや)」と呼ばれるのは、そこに機織りの女神が住み、機を織っていたという伝説によるものである。山名が土地の産業の記憶とそのまま結びついている山は、百名山のなかでもそう多くない。
深田久弥がこの山に登ったのは1936年4月9日だという。4月の南魚沼はまだ深い雪の下で、彼が見たのは夏のチシマザサの草原ではなく白い斜面だったことになる。豪雪地の山を雪のある季節に歩いた人間が百名山の一座に選んだ、と考えると選定の手触りが少し変わる。
ブナ林を抜けて、笹の海へ
一般登山者にとって、巻機山のルートは実質的に一本に絞られる。南側山麓の清水集落から井戸尾根を往復する井戸尾根コースで、林野庁はこれを歩程約8時間の一般的なコースとしている。南魚沼市観光協会は難易度を「やや難」と置き、桜坂から焼松(5合目)まで1時間30分、六合目展望台まで1時間10分、前巻機山(ニセ巻機山)まで1時間40分、避難小屋まで10分、山頂まで40分という区間タイムを公開している。合計すると桜坂から山頂まで5時間10分(編集部の試算)。新潟県は牛ヶ岳までを含めて登り約4時間30分・下り約3時間30分という数字を挙げており、登山口からの標高差は約1,500mある。
道の表情は高度とともに切り替わる。桜坂駐車場から6合目付近まではブナなどの広葉樹林が続き、8合目を過ぎて標高1,861mのニセ巻機山に立つと、山頂周辺に広がる広大なチシマザサの草原とオオシラビソの樹林帯が一望できる、と林野庁の資料は書く。そこから頂までは1時間弱。樹林の暗さから笹の明るさへ視界が一度に開ける場所であり、巻機山に登るという行為の大半は、この切り替わりまでの登りに費やされる。
体力の核心は前半の急登だが、足元の厄介さは別のところにある。南魚沼市観光協会は、降雨があった場合、2〜4合目付近は粘土質の泥によって滑りやすくなると注意を促している。雪の多い土地の尾根らしく、土は水を含むとよく粘る。下りで予定より時間を食うのは、たいていこの区間である。装備の要点は、泥を想定した滑りにくいソールと、樹林を抜けたあとの風を止められる上着の二つに集約される。
標柱の立つ場所と、本当の頂
巻機山には、山頂標柱の位置と最高点が一致しないという癖がある。標識が立つのは巻機権現の御機屋で、実際の最高地点は牛ヶ岳方面へ400mほど、歩いて10分ほど進んだところにある。新潟県のページは、そこに標識はなく石を積み上げたケルンがあるだけだと書く。標柱の前で引き返す登山者と、その先まで足を延ばす登山者が、同じ稜線上に混在する。
御機屋から牛ヶ岳や割引岳へ続く稜線は起伏の小さい草原で、チシマザサ草原の中の登山道脇には雪田や池塘が散在する。林野庁はこの池塘を「高山の湿原や泥炭地にある池沼」と説明し、イワイチョウ、ハクサンコザクラ、ニッコウキスゲといった植物を挙げる。新潟県は竜王ノ池をはじめとする池塘を、この山の見どころの筆頭に置いている。
池塘は水たまりではなく、泥炭が長い時間をかけて作った地形である。一度踏み抜かれた縁は簡単には戻らない。稜線が平坦で歩きやすいことと、その平坦さが脆いことは、この山では同じ事実の裏表である。
裸地に草を戻した半世紀
この草原は、放っておいて残ったものではない。1950年代後半以降の登山ブームで、登山道沿いの雪田草原は踏圧に耐えきれず、広い範囲で裸地化と土壌浸食が進んだ。日本ナショナルトラストが東京農業大学の自然環境保全学研究室とともに自然破壊の実態調査を行ったのが1976年、翌年からボランティア活動が始まったのが「巻機山景観保全活動」の出発点である。
以降の作業は地味だ。木道を敷いて歩きやすい道に整え、在来植物の移植と播種で植生を戻し、土砂で埋まった池塘を復元する。延べ1,500人を超えるボランティアの手で、2012年度までに植生復元を計画した範囲の作業をほぼ終えたという。
避難小屋も人の手で保たれている。ニセ巻機山から山頂側へ下ったところに建つ巻機山避難小屋は、平成16年に全面改築された無人の2階建てで、電気をまったく使わない攪拌式のバイオトイレを備える。動力源は登山者自身で、利用後に前へ20回、後ろへ10回まわす。維持管理をボランティアで長年担っているのが地元のグループ「巻友会」で、会員24名が登山者の多い6月から9月のあいだ毎週2人ずつ交代で小屋まで登り、トイレの点検や清掃、小屋とその周辺の環境整備を行っていると林野庁の資料は伝えている。
- 巻機山避難小屋: 無人・2階建て、収容人数30人、バイオトイレ設置(南魚沼市観光協会)
- 水場: 避難小屋正面から3分の沢水(同)
- シーズン中は混み合うため、可能な限り日帰りでの計画が案内されている(同)
巻機山は、中越森林管理署管内にある2箇所の森林生態系保護地域を結ぶ形で設定された「緑の回廊三国線」(延長約56km)に含まれている。山頂の草原だけでなく、麓のブナ林までを一続きの生息環境として扱う枠組みのなかにある山である。
雪が退いてから、また閉じるまで
巻機山の季節は雪に規定される。南魚沼市観光協会は山開きを例年5月第4日曜日としており、新潟県観光協会は登山時期を5月〜11月としたうえで、残雪の状況などにより入山禁止になることがあると案内している。適期を月で覚えるより、その年の雪の残り方を直前に確かめる山である。
残雪の多さは、上級ルートではそのまま危険に直結する。ヌクビ沢コースについて南魚沼市観光協会は、毎年8月ごろまで雪渓が残り、崩落に巻き込まれた場合には救助できなくなる可能性があるとして、入山は9月以降を推奨し、ヘルメット着用を求め、このコースからの下山は禁止としている。市が推奨しているのは井戸尾根であり、初めて入るなら素直にそちらを選ぶのが筋である。
日帰りを前提に、標高差約1,500m・歩程約8時間を歩き切る足と行動食は要る。山頂部は遮るもののない草原で、天候が崩れたときに逃げ込める樹林が近くにない。避難小屋はあるが、それは長い行程の途中にある一点にすぎない。
バスの消えた登山口へ
巻機山のアクセスは2026年に変わった。南越後観光バスの六日町駅〜清水の路線は2026年3月末をもって運行を終了し、登山口への公共交通は完全予約型のAIオンデマンド交通「MOSS」に引き継がれている。ただしMOSSは平日限定の運行で、南魚沼市観光協会は事前の運行ルール確認と予約が必須だと案内している(2026年9月時点)。週末に公共交通だけで登山口に立つのは難しく、タクシーか自家用車が現実的な選択肢になる。
車なら関越自動車道の塩沢石打ICから約25分、越後湯沢駅から約40分、石打駅から約25分。登山口の桜坂駐車場は約100台で、普通車500円・大型車1,000円の後払い、登山者カードの提出が求められる。清水集落にはおのづか、泉屋、上田屋、やまご、雲天といった民宿があり、前泊して暗いうちに桜坂へ上がる組み立てが取りやすい。日帰りが推奨される山では、前夜の宿が事実上の装備の一部になる。
五十沢キャンプ場から入る裏巻機コースは上級者向けで、南魚沼市観光協会は2026年9月17日まで平日(月〜木)が通行止め、林道入口のゲートは夜間(17時〜8時)に施錠されると案内している。通行には環境保全協力費(大人500円、子ども300円)が必要。通行止めの期限が近いため、出発前に最新の告知を確かめたい。
機織りの神を祀り、標柱と最高点がずれ、平坦な草原が半世紀の手作業で守られている。巻機山登山は一日で登って一日で降りる短い滞在だが、足元のものがどれだけ手間をかけて保たれてきたかを知っているかどうかで、同じ稜線の歩き心地は変わる。