湯釜を見に行けない山として
草津白根山は群馬県吾妻郡草津町に位置する活火山で、日本百名山の一座に数えられ、上信越高原国立公園の一部をなす。ただしこれは一つの峰を指す名ではない。湯釜を抱く白根山(2,160m)、最高峰の本白根山(2,171m)、その間に立つ逢ノ峰を束ねた総称である。山名としては単に「白根山」だが、同名の山と区別するときに「草津白根山」と呼び分けられてきた。
この山の顔は湯釜である。草津町の解説によれば直径約300m、水深約30m、水温約18℃の火口湖で、世界有数の酸性度をもつ水をたたえる。草木を寄せつけない灰白色の斜面に、白濁した青緑の水面がひとつだけ嵌まっている。麓の草津温泉の強い酸性泉も同じ火山活動に由来する。山と温泉街は、地下でつながった一つの系である。
この山について最初に書くべきなのは、景観ではない。2026年9月時点で、その湯釜を間近から見ることはできない、という事実のほうだ。草津白根山登山を計画するとき、最初に確認するのはコースタイムでも天気予報でもなく、噴火警戒レベルと立入規制の現在地になる。この順序が逆にならないことが、この山の前提である。
2018年1月23日、鏡池のほうから
2018年1月23日の午前、本白根山の鏡池付近で噴火が発生した。死者1名、負傷者11名を出し、気象庁は噴火警戒レベルを3に引き上げている。この一日が、草津白根山という山の性格を説明している。それまで警戒の主対象は、絶えず噴気を上げ続ける湯釜側だった。実際に噴いたのは、静穏だと思われていた本白根山側である。
同じ山体に複数の火口を持ち、どこが動くかを前もって決め打ちできない。噴火警戒レベルが湯釜を基準に運用されていても、本白根山は別の時計で動きうる。この非対称が、規制を今も複雑にしている。
被害は索道にも及んだ。白根火山ロープウェイは山麓から標高2,000m前後の火口原まで人を運び上げる、最も手軽な手段だった。噴火では山頂駅の屋根に噴石が穴を開け、ゴンドラの窓ガラスが割れた。新たに開いた火口の一つは、駅のすぐそばだった。2018年2月、草津町は再開せず廃止する方針を表明している。以後、この山のアクセスは国道一本に絞られた。索道が一本消えたことが、登り方そのものを書き換えた。
レベルが下がっても、歩けるとは限らない
直近の火山活動と規制は、短い期間に大きく振れている。
- 2025年8月4日6時45分、気象庁が噴火警戒レベルを1から2へ引き上げ。湯釜火口から概ね1kmの範囲で、大きな噴石への警戒が呼びかけられた。
- 同日、群馬県が国道292号の殺生河原駐車場前から万座三差路までの約8.5kmを全面通行止めとした。
- 2026年5月15日11時、気象庁がレベルを1へ引き下げ。
- 2026年5月29日午後1時、志賀草津道路が全線で再開通した。
引き下げの根拠として気象庁が挙げたのは、2026年3月以降に地震活動が低調に推移したこと、湯釜浅部の膨張によると考えられる地殻変動と全磁力の変化が4月上旬には概ね停滞したこと、噴気の化学成分比にも活動の低下を示唆する変化が認められたことである。単一の数値ではなく、複数の観測系が同じ方向を向いてレベルが動いた。レベル1は9月に入っても維持されている。
ただしレベル1は入山自由を意味しない。気象庁は湯釜火口から概ね500mの範囲ではごく小規模な火山灰等の噴出の可能性が残るとしており、草津町はこれを受けて火口から半径500mの立入を規制している。湯釜の見学はできず、規制区域へ通じる登山道も、安全のため通行を控えるよう求められている。白根レストハウスと山頂駐車場も当面のあいだ使えない。2026年9月時点で草津白根山にできることは、国道で山体を通り抜けるところまでである。
噴火警戒レベルと自治体の立入規制は別々に運用され、動く速度も違う。レベルが下がっても町の規制が残る局面は珍しくない。出発前に気象庁の火山情報と、草津町・群馬県の告知の両方を見る。片方だけでは、この山の現在地はわからない。
白根探勝歩道、半日で一周できた山
規制のない時期の草津白根山のルートは、他の百名山とかなり違う形をしている。起点となる白根火山の駐車場がすでに標高2,000m前後にあり、登るというより火口原を周遊する構造だ。中心は白根探勝歩道である。百名山のコースデータをまとめた資料では、白根火山から鏡池、白根探勝歩道の最高地点、本白根山を経て湯釜側へ回り込む周回を3時間20分・8.6km・登り下りとも約600mとしている。半日で百名山が一つ、という数字になる——駐車場が閉じていない年であれば。
だがその軽さは、体力の話ではなく道路の話である。標高2,000mまで運んでくれたのは国道であって自分の足ではない。稼いでいない高度は、天候が崩れたときに処理できる余地も小さい。火口原には樹林がほとんどなく、風雨を避けられる地形も乏しい。短いルートほど引き返す判断が遅れる。
本白根山側の砂礫地はコマクサの群落で知られる。他の植物が根を張れない火山礫を選んで咲く花で、荒れ地であることと花が咲くことが同じ原因から来ている。この山の季節感は、火山がつくった不毛の上にだけ成り立っている。
国道が登山口を兼ねている
草津白根山のアクセスは、国道292号志賀草津道路(志賀草津高原ルート)にほぼ集約される。草津温泉側からも、長野県山ノ内町の渋峠側からも標高2,000m前後まで車で上がれる道で、日本の国道最高地点を通る。アクセス路そのものが観光対象になっている、珍しい構造の山だ。
公共交通なら、JR吾妻線の長野原草津口駅から草津温泉バスターミナルまでのバスは所定どおり動いている。ただし草津温泉から白根火山へ向かう志賀草津高原線のバスは、道路の状況により当面の間、全便運休である(2026年9月時点)。道路が再開通しても、山上へ公共交通で上がる手段は戻っていない。
冬季は道路そのものが閉まる。例年11月中旬から4月下旬まで閉鎖され、2025年から2026年にかけては2025年11月12日午後1時から2026年4月22日午前10時までが閉鎖期間として告知された。つまりこの山は、雪のある期間は道路によって閉じられ、雪のない期間は火山によって閉じられうる。開いている窓は、年によってかなり狭くなる。
警戒レベルが上がっている期間には、歩行者の通行禁止、自転車・オートバイ・オープンカーの通行禁止、夜間通行止めといった条件が課されてきた。屋根のない乗り物が名指しで除かれるのは、噴石も火山ガスも上から、あるいは足元から来るものだからだ。規制の文面は、その山が何を恐れているかをそのまま書いている。
短い夏と、火山を歩くための備え
草津白根山の時期は、道路の開通期間とほぼ重なる。4月下旬の開通直後は路肩に雪が残り、朝晩は氷点下まで落ちる。6月は残雪と濃いガスが同居する。7月から8月はコマクサの季節であり、同時に午後の雷が最も出やすい。9月下旬から10月は空気が澄み、11月中旬の冬季閉鎖でシーズンが閉じる。
装備と服装は、標高差ではなく標高2,000mに合わせて組む。火口原には風を遮る樹林がなく、夏でも防風防水のシェルとフリースは外せない。足元は砂礫と火山灰で、乾いていても滑る。行動時間が短いぶん水と食料は控えめで足りるが、短いからという理由で防寒を削らない。この山で体を冷やす原因は行動時間ではなく、遮るもののない風のほうだ。
この山の固有のリスクは火山ガスである。硫化水素や二酸化硫黄は空気より重く、窪地や無風の朝に溜まりやすい。喉の刺激や頭痛を感じたらその場で休まず、風上へ、低いところから高いところへ移動する。山域には噴石から逃げ込むコンクリート製の避難シェルターが設けられてきた。逃げ込む場所があらかじめ用意されている山である、という一点に、草津白根山の性格は要約されている。
この山は、頂に立つことよりも、人がどこまで近づいてよいかの線を毎年引き直している。線は気象庁の観測と自治体の判断で動き、2026年もその途中にある。登れる年に、登れる形で歩く。草津白根山とは、そういう付き合い方になる。