「箱根山」という名の一座は、どこにもない
箱根山は神奈川県南西部にそびえる標高1,438mの火山である。ただし地形図を広げて「箱根山」と記された三角点を探しても、それは見つからない。箱根山とは芦ノ湖を取り囲む火山全体の総称であり、その最高点にあたるのが中央火口丘の神山(かみやま)だ。地図やガイドで「箱根山(神山)」と併記されるのはこのためで、箱根山登山という言葉は、実際には神山に登ることを意味している。古くは「函根」と書き、函嶺(かんれい)とも呼ばれた。箱のかたちをした地形の内側に、湖と温泉と噴煙をまとめて収めている山である。
中央火口丘に並ぶのは神山だけではない。冠ヶ岳1,409m、箱根駒ヶ岳1,356m、早雲山1,153m、上二子山1,099mといった峰が肩を寄せ合い、その外側を新旧二重の外輪山が囲む。古期外輪山・新期外輪山・中央火口丘からなる三重式火山という構造は世界的にも珍しいとされ、箱根の地形はほぼこの一文で説明がついてしまう。外輪山の北端に立つ金時山も、この火山系の一部だ。一帯は富士箱根伊豆国立公園の箱根地域にあたる。
芦ノ湖をつくった崩壊と、いまも噴く谷
約3000年前、神山で水蒸気噴火が起きた。山体が崩れて岩屑なだれが発生し、川がせき止められて芦ノ湖が生まれたと考えられている。つまり芦ノ湖は、これから登ろうとしている山が自分で崩れた跡にできた湖だ。そして崩壊の傷口が、現在も噴煙を上げ続ける大涌谷である。園路が整備され、箱根有数の集客力を持つ観光地になっている一角が、地質学的には山の崩壊面そのものという構図になっている。
気象庁は箱根山に噴火警戒レベルを設定しており、令和元年10月7日10時00分の発表以降、レベル1「活火山であることに留意」が続いている。2026年9月時点でも、気象庁が公表する火山活動の状況はこのレベルのままだ。ただしレベル1は安全宣言ではない。想定火口域とされる大涌谷周辺では活発な噴気活動が続いており、気象庁は火山灰等の突発的な噴出現象への注意を呼びかけている。箱根山の登山計画は、標高やコースタイムより先に、この一点の確認から始まる。
十年ぶりに開いた稜線
2015年6月、大涌谷で小規模噴火が発生した。火山ガスの危険から周辺のハイキングコースは全区間が閉鎖され、神山は「行けない最高峰」になった。関東の登山者にとって、箱根は金時山と外輪山の縦走路で歩く場所であって、中央火口丘は地図の上の空白でしかない——そういう状態が、そのまま十年続いた。
再開は段階的だった。まず令和6年(2024年)7月に防ヶ沢登山口〜駒ヶ岳間が通行可能になり、続いて令和7年(2025年)3月28日午前10時、駒ヶ岳山頂〜分岐点〜神山山頂の区間が開放された。開放の背景として伝えられているのは、ガス濃度が検出されない状況が長期間続いたことと、修復活動に進展があったことである。一方で神山から大涌谷方面へ下る登山道は引き続き立入禁止であり、2026年9月時点でもこの区間は開いていない。神山から大涌谷へ抜ける周回は、まだ描けないルートである。
箱根町は開放にあたり、コース上に急峻な箇所があること、足元に十分注意して通行することを案内している。そこに添えられているのが「ガスの臭いを感じた際には、直ちに下山してください」という一文だ。一般的な登山道の注意書きとは性格が違う。この山では、引き返す判断の基準が天候や体力ではなく、匂いになりうる。
索道で上がるか、湖の畔から歩くか
開放区間の構成上、現在の箱根山のルートは駒ヶ岳を経由する形に集約される。最も短いのは、箱根園から駒ヶ岳ロープウェーで山頂駅まで上がり、そこから稜線をたどって神山を往復する組み立てだ。標高のほとんどを索道が稼ぐので歩行時間は短く、軽い装備の日帰りが成立する。ただし行動時間は索道の運行時間と点検運休に完全に縛られる。下りの最終便を先に押さえてから歩き出すのが前提で、これは天候判断より優先される制約になる。
自分の足で登り切るなら防ヶ沢コースになる。登山口ガイドが示す標準的なコースタイムは登り3時間25分、下り2時間10分とされ、植林帯から急斜面を経て駒ヶ岳、さらに神山へと続く。湖畔から歩き通せば累積の登りは1,000mを超える。ただし防ヶ沢登山口そのものが湖畔からかなり奥にある。箱根町の案内によれば、湖尻ターミナルから箱根九頭龍の森のセラピーロード経由で約80分、箱根園からは約50分。登山口に立つまでが既に一仕事で、ここを含めると半日では収まらない行程になる。マイカーなら桃源台の駐車場などが起点になり、湖尻の無料駐車場はターミナル利用者向けのため登山者の長時間駐車には向かない。
箱根山のアクセスは、山としては例外的に恵まれている。小田原・箱根湯本を起点に登山電車とケーブルカー、バス、遊覧船が芦ノ湖畔まで通じており、桃源台にも箱根園にも公共交通で入れる。首都圏から前泊なしで届く火山の最高峰、という条件を満たす山はそう多くない。一方でその交通網は登山者ではなく観光地のダイヤで動いている。連休の渋滞や乗り継ぎの積み残しは計画の外側から効いてくるので、下山後の移動には余裕を見ておきたい。
最高峰が、いちばん展望に乏しいという逆転
駒ヶ岳の山頂は360度の展望が開ける台地で、芦ノ湖も富士山も相模湾も見渡せる。ところが箱根の最高峰である神山の山頂は、樹林に囲まれた静かな場所だ。標高で80mほど低い隣の峰のほうが、眺めは明確に良い。この逆転が、神山という山の性格をよく表している。
箱根で「登る山」といえば、長く金時山だった。標高1,212m、外輪山の北端から富士山を正面に据える山である。眺めを目的にするなら、いまでも選ぶべきは金時山のほうだ。神山に登る理由は別のところにある。カルデラの縁を歩く金時山に対して、神山はカルデラの中心に立つ。外輪山の内側に入り込み、自分を囲んでいる地形の真ん中から周囲の稜線を見返す——その感触は、この山でしか得られない。十年閉じていた場所に足を踏み入れるという事実も含めて、これは景色の山ではなく位置の山である。
火山を歩く装備と、選ぶ季節
標高1,438mという数字から低山の感覚で入ると、足元で裏切られる。開放区間には急峻な箇所があり、火山性の土は雨のあと滑りやすい。グリップのしっかりした登山靴が最低条件で、ストックの効く場面も多い。冬季は積雪よりも凍結が問題になる標高帯で、朝の北面が凍っている日にはチェーンスパイクが要る。箱根山の装備は、観光地の裏山ではなく独立した一座に登る想定で組んだほうがいい。
季節でいえば、盛夏は避けたい時期になる。箱根は湿度が高く、樹林帯の登りは風が抜けない。歩きやすいのは秋から初冬、そして新緑の頃で、空気の澄む時期には駒ヶ岳からの視界も伸びる。服装は行動中に汗を大量にかく前提の化繊レイヤーに、稜線の風を止める一枚を足す構成が基本だ。なお編集部が調べた範囲では、駒ヶ岳〜神山間に水場の案内は見当たらない。水は索道の駅か湖畔で用意して、担ぎ上げる前提で考えたい。
火山ガスの匂い、索道の最終便、いまだ閉じたままの大涌谷への道。箱根山の一日を組み立てる要素は、そのほとんどが、この山が現役の火山であるという事実から派生している。歩ける区間は十年かけて少しずつ戻ってきたが、それは山の側の都合であって、また変わりうる。出かける前に箱根町の通行情報と気象庁の噴火警戒レベルを確かめる——箱根山では、その手順そのものが登山の一部である。