八日間、見えつづけた山
両神山は埼玉県秩父市と秩父郡小鹿野町の境に立つ標高1,723mの山で、奥秩父山塊の北端に位置し、秩父多摩甲斐国立公園に含まれる。山名の由来は一つに定まらない。イザナギ・イザナミの二神を祀ることから「両神」とする説、日本武尊が東征の途上で八日のあいだこの山を見つづけたことから「八日見山」と呼ばれ、それが転じたとする説、龍神を祀る山だとする説が並び立っている。どの説を取るにせよ、この山が古くから名指しで意識されてきたことだけは変わらない。秩父盆地のどこから眺めても、鋸の歯のような稜線がすぐに見分けられるからだ。
山体を作っているのはチャートである。古い海底に降り積もった微細な生物の遺骸が固まった石英質の岩で、風化に抗いながら稜線の鋭さを保っている。硬い岩は登る側にとって、踏んでも崩れない足場であると同時に、濡れれば容赦なく滑る面でもある。両神山が「鎖の山」として語られる理由の半分は、この岩の性格にある。
深田久弥は『日本百名山』にこの山を選んだ。両神山は三峰山・武甲山とともに秩父三山に数えられ、三山のなかでも最も奥まった位置を占める。修験の拠点は二つあった。日向大谷の観蔵院と、浦島の金剛院である。両院には江戸期の文書が伝わり、山は近世を通じて講中の登拝を集めつづけた。信仰の道がそのまま登山道になった山は各地にあるが、両神山の場合は石標や行者像が今も道端に立ち、歩いているあいだじゅうその系譜を思い出させてくる。
鎖を数えながら登る表参道
現在の両神山登山で最も歩かれているのが、日向大谷口から入る表参道である。小鹿野町観光協会はこのコースをコースレベル上級、所要約7.4時間としている。YAMAPのモデルコースでは距離約9.1km、累積標高差約1,559m、標準コースタイム7時間46分。数字の上では日帰りの範囲に収まるが、標高1,723mの山でこの累積標高差というのは、山の高さに騙されるなという警告そのものだ。
道は両神山荘の脇から始まり、しばらくは高度をあまり上げずに沢沿いを縫っていく。会所で七滝沢コースを分け、そこから斜面に取り付く。中間にあたる清滝小屋はすでに小屋としての営業を終えており、いまは無人の避難小屋として開放されている。屋根と広さのある休憩地点としての役割が大きい。小屋から上で傾斜が変わり、弘法之井戸、横岩と過ぎるあたりから鎖場が断続的に現れはじめる。両神神社を経て山頂までは短いが、最後まで岩は途切れない。山頂は岩場で狭く、休憩もすれ違いも譲り合いになる。
埼玉県警察は、日向大谷口コースの鎖場付近で滑落遭難が起きているとして注意を呼びかけている。挙げられているのは、三点支持の徹底、鎖を過度に信用せず補助として掴みながらしっかり立って足場を探ること、岩場や鎖場ではストックをザックに収納すること、落石を避けるため先行者との距離を確保すること、そして鎖場を通過した安堵から気が緩んでバランスを崩す遭難も起きていること。危ないのは核心部そのものよりも、抜けた直後の何でもない斜面だという指摘は重い。
北面は、開いたり閉じたりする
同じ山でありながら、北面の八丁尾根はまったく別の性格を持つ。八丁峠から西岳・東岳を越えて山頂へ至るこの尾根は鎖場が連続することで知られる。距離が長いわけではない。短い区間に鎖と岩場が詰め込まれ、登りきったあとに同じだけの下降が待っている構造そのものが効いてくる。修験の山の北面は参詣の道ではなく行の道だったのだろうと思わせる険しさだ。
この北面は2026年、数か月にわたって閉じていた。埼玉県は6月4日、ツキノワグマによる人的被害防止のため、上落合橋登山口から両神山山頂までの八丁尾根登山道、坂本から八丁峠への登山道、諏訪山山頂から八丁峠への登山道を通行止めとし、9月10日にこの3区間を解除した。ただし解除の告知には、状況によって再び通行止めとする可能性が添えられている。
そして解除されたからといって、すぐに歩けるわけでもない。八丁トンネル登山口へ通じる林道金山志賀坂線が路体崩落により期間未定の終日通行止めで、埼玉県警察の山岳情報(2026年9月10日更新)は八丁トンネル登山口まで行くことはできないと明記している。会所で分かれる七滝沢コースも、登山道への土砂流出で通行止めが続く。両神山のアクセスを考えるとき、まずこの通行止めを一つずつ確認するところから計画が始まる。
山中さんが開いた道
北面と七滝沢が塞がれている以上、いま両神山で現実的に選べるルートは表参道ともう一本しかない。南面から入る白井差新道である。山中豊彦氏が私有地内に開き、管理を続けている道で、事前予約制、環境整備料として協力金1,000円が必要になる。山と高原地図Webの情報ではコースタイム6時間25分、距離10.7km、最大高低差1,103m、難易度は中級。表参道より数字は穏やかで、道の手入れも行き届いている。
ただしこれは、誰かが自分の土地に手をかけ続けているから存在している道である。事前の一本の電話と千円は、入山料というより、この道が来年も開いているための条件に近い。昇竜ノ滝、ブナ平の紅葉、梵天尾根の鎖場と見どころは多いが、梵天尾根に出る区間は帰路で迷いやすいとされており、下りで気を抜かないこと。山頂が狭いのも表参道と変わらない。両神山という山は、どちらから登っても最後は同じ岩の上に人を集めてしまう。
ツツジが咲く一ヶ月
両神山の季節は花で区切られる。小鹿野町観光協会はミツバツツジ・ヤシオツツジなどを4月中旬から5月いっぱい、ニリンソウを5月中旬としており、花の百名山としての顔はこの一ヶ月ほどに集中していると言っていい。岩稜に淡い紅が点る時期と、表参道の沢沿いが白く埋まる時期が、わずかにずれて重なる。夏は樹林帯が蒸し暑く展望も限られ、秋は紅葉と空気の澄む時期が重なる。そして標高1,723mという数字から受ける印象よりも、この山の凍結は早く訪れ、長く居座る。
装備は標高ではなく岩場を基準に組む。鎖場が続く以上、グリップの効く登山靴と、両手が完全に自由になるザックが前提条件になる。県警が岩場でのストック収納を求めている以上、行動中にすぐ仕舞える取り付け方にしておきたい。服装は樹林帯の蒸し暑さと岩稜の風の両方に対応できる重ね着で、手早く脱ぎ着できる構成がよい。日帰りでの長時間行動になるため、水と行動食は余裕を持たせる。ヘッドランプは、鎖場の通過に時間を取られて下山が押したときに効いてくる装備だ。
西武秩父からバスを乗り継いで
公共交通で日向大谷口に入る場合は、西武秩父駅から両神温泉薬師の湯方面の小鹿野町営バスに乗り、両神庁舎前または薬師の湯で日向大谷・三峰口線に乗り継ぐ。秩父鉄道の三峰口駅から同じ路線で入ることもできる。いずれも本数は限られており、帰りのバスの時刻から逆算して行動時間を決めるのが、この山では現実的な組み方になる。
車の場合は日向大谷口周辺の駐車場を使う。無料の駐車スペースと、両神山荘付近の有料駐車場がある。いずれも台数は多くなく、週末は早い時間に埋まる。下山後は道の駅両神温泉薬師の湯が近く、バスの乗り継ぎ地点でもあるため、湯に入りながら次の便を待つという段取りが組める。
両神山は、標高だけで語れば小さく見える山だ。実際には1,500mを超える累積標高差と、最後まで途切れない鎖場と、開いたり閉じたりを繰り返す複数の登山道を抱えている。八日のあいだ見えつづけたという名の由来は、あくまで遠くから眺める側の記憶である。近づいてみると、この山は名前ほどおおらかではない。日向大谷口の鳥居をくぐる前に、県警の山岳情報と県の通行止め情報を一度ずつ開いておくこと。それがいまの両神山に対する、いちばん実際的な敬意の払い方だと思う。