雲の上の苗代
苗場山は新潟県湯沢町・津南町と長野県栄村の境に立つ標高2,145mの山である。名の響きからスキー場の苗場を思い浮かべる人が多いが、この山の本体はゲレンデの側ではなく、その南に横たわる巨大な平頂のほうだ。山名の由来は、山頂の池塘に繁茂するミヤマホタルイやヤチスゲが苗代田のように見えたことにあるとされる。古語で地震を「ナイ」と呼び、この山を地震の発源地と想像したことに結びつける説も伝わる。山頂には延喜式神名帳に名を残す伊米神社の奥の院が置かれ、里宮は小千谷市と湯沢町にある。天上に田を見た人々が、豊作を願って仰いできた山だ。
地質的には成層火山で、現在の山体はおよそ30万年前に形づくられた。北へ延びる神楽ヶ峰の稜線は外輪山にあたる。溶岩台地の上に水が溜まり、寒冷な気候が泥炭を育てた結果、頂上部には約600ヘクタールの高層湿原が成立した。上信越高原国立公園のなかでも、その大部分が特別保護地区に指定されている。深田久弥は『日本百名山』でこの山容を「クジラの背のような膨大な図体」と書いた。遠くから望んでも山頂らしい突起が見当たらないこと、それ自体が苗場山の署名になっている。
二つの県から、四つの道
苗場山のルートは新潟県側と長野県側で性格がはっきり分かれる。新潟側の主脈は祓川コースで、五合目の和田小屋を起点に、下ノ芝・中ノ芝・上ノ芝と名のついた湿地状の平坦地を継ぎながら高度を上げる。小松原湿原への分岐を分け、神楽ヶ峰をいったん越えて富士見坂を下り、雷清水からお花畑を横切って、雲尾坂の急登で一気に頂上台地へ抜ける。登りはおよそ4時間。せっかく稼いだ標高を神楽ヶ峰の先で一度手放してから登り返す構成が、このコースの体力的な山場である。
- 祓川コース(湯沢町・祓川登山口)── 新潟側の主脈。登り約4時間、駐車場は約150台
- 小赤沢コース(栄村・三合目登山口)── 山頂まで約3時間30分の最短路。駐車場は普通車100台
- 大赤沢コース(栄村・大赤沢登山口)── 山頂まで約6時間10分。距離が長く上級者向け
- 赤湯温泉・昌次新道(湯沢町側)── 赤湯温泉に泊まって登る道。山頂湿原からの下りに厳しい鎖場がある
山と高原地図は、和田小屋から山頂を踏み、シラビソ廊下を経て赤湯温泉へ下る2泊3日・歩行10時間・距離16km・最大高低差1,265mの行程を中級として紹介している。山頂湿原の南側は足場が悪く登山者も少ない厳しい鎖場、シラビソ廊下は左右が深く切れ落ちた細い尾根歩きだと注意を促す。かつては田代側から詰め上がる道もあったが、田代ルートは2020年をもって閉鎖され、現在は通行できない。古い版の地図を持って入ると当てが外れる。
五合目までの、三十分
祓川コースを歩く日は、林道歩きから始まる。約150台の祓川登山口駐車場に車を置き、そこから林道を30分ほど詰めて、ようやく五合目の和田小屋に立つ。標高1,380m、苗場山登山のベースとして使われてきた小屋で、予約は電話のみ、ウェブでは受け付けていない。前泊すれば夜明けとともに歩き出せる。
かぐら第1高速リフトの登山営業を当てにする計画は、年ごとに確かめ直したほうがいい。実施される年でも期間と時間帯は限られ、2025年は7月19日から10月19日までの土休日、朝6時から8時30分までの上り片道のみの運行で、下山は徒歩という条件だった。リフトが動かない前提で組んでおけば、動いたときに楽になるだけで済む。
道の開通時期も雪の量で動く。2026年は祓川登山口駐車場までの道路が6月9日、苗場スキー場から小日橋に至る町道赤湯線が6月11日の開通だった。同年7月末時点で湯沢町は、赤湯コースについて赤湯温泉山口館手前の急坂で岩が露出し歩きづらくなっていること、駐車場が工事のため区画を制限していることを告知している。町は登山計画書の提出も繰り返し呼びかけている。
道路・リフト・小屋の状況は年度ごとに変わる。出発前にかぐらスキー場と湯沢町環境農林課、長野県側なら栄村秋山郷観光協会へ当たり直すのが確実である。
雪が抜けてから、草が枯れるまで
苗場山登山の時期はおおむね6月上旬から11月までとされる。日本有数の豪雪地帯の山であり、7月に入っても残雪が消えない年がある。雪が抜けた順に、頂上の湿原は表情を替えていく。6月はミズバショウ、7月はワタスゲとニッコウキスゲ、そして9月には湿原全体が赤茶に染まる草紅葉が来る。ヌマガヤやイワイチョウ、ヤチスゲ、ミヤマホタルイといった湿原特有の群落が、標高2,000m台の台地の上で入れ替わりながら短い夏を回していく。
服装と装備は、2,145mという数字より一段厳しめに見積もるのが正しい。頂上台地は遮るもののない平原で、風が当たれば真夏でも体感温度は一気に落ちる。逆に樹林帯の登りでは熱がこもり、湯沢町は高温への備えと天候の急変に注意を促している。残雪の残る6月なら軽アイゼンを検討し、濡れた木道と岩に対応できる靴底、雨具の上下、防風を兼ねた保温着は季節を問わず携行したい。水場は限られ、山頂湿原の池塘の水は煮沸が前提になる。最低2リットルは背負って上がるべき山である。
池塘のほとりで夜を過ごす
山頂の長野県側には苗場山頂ヒュッテ(苗場山自然体験交流センター)が建つ。2026年の営業は6月1日から10月18日までで、降雪の状況によってはそれより早く閉じる。床面積230平方メートルの建物は92名を収容し、浄化槽を備えた水洗トイレを持つ。宿泊は完全予約制で、受け付けは電話のみ、8時から18時まで。重複予約を避けるため留守番電話やSNS、メールでは受け付けないと明示されている。予約の際は代表者名と連絡先、人数、食事の要否に加えて、どの登山口からどのルートで上がるかを伝える決まりになっている。
泊まる価値は夜と朝のほうにある。日帰りで往復すれば、頂上台地に居られるのは正午前後の数十分だ。木道を辿って池塘を巡り、日が傾いてから水面の色が変わっていくのを眺める時間は、泊まった者だけのものになる。ただし湿原は登山道と木道の外を歩くことが厳しく禁じられている。泥炭の上に載った植生は、一度踏まれると回復に長い年月を要する。三脚を据える場所を探して木道を外れる行為が、この山でいちばん見過ごされやすい加害である。
秋山郷という、もうひとつの入口
苗場山のアクセスは、新潟側と長野側でまったく違う旅になる。新潟側の玄関は越後湯沢駅だが、祓川登山口へ向かう路線バスはない。タクシーで約25分、片道8,000円前後を見ておく。車なら関越自動車道の湯沢インターチェンジから30分ほどの距離である。首都圏から新幹線で入って当日中に歩き出せる利便は、この山が人気を保ってきた理由のひとつだ。
長野側の起点はJR飯山線の津南駅になる。小赤沢登山口まではタクシーまたは路線バスで約60分、大赤沢登山口までは約50分。向かう先は中津川の谷に点在する集落群、秋山郷である。小赤沢三合目には普通車100台分の駐車スペースがあり、登山口に山小屋はないため、前泊は秋山郷か津南町側の宿で取ることになる。最短の3時間30分で頂上に立てるこの道は、時間の限られた登山者にとって最も合理的な選択だが、帰路に秋山郷の湯を素通りしてしまうのは、この谷まで来た甲斐を半分捨てるようなものだと思う。