大峰山という名の二つの意味
大峰山という呼称は、広義には奈良県南部の大峰山脈全体を、狭義には山上ヶ岳(さんじょうがたけ、1,719m)を指す。大峰山脈の最高峰は南側の八経ヶ岳(はっきょうがたけ、1,915m)で、近畿地方の最高峰でもある。登山対象として『大峰山に登った』と言うとき、修験道の聖地としての山上ヶ岳を意味する場合と、近畿最高峰を踏みに行く八経ヶ岳を意味する場合がある。
大峰山脈は天川村・上北山村・十津川村など奈良県南部の山岳地帯にまたがり、修験道(しゅげんどう)の根本道場として1,300年の歴史を持つ。修験道は7世紀の役小角(役行者)が開いたとされる日本独自の山岳信仰で、神道・密教・古来の山岳崇拝が融合した宗教。大峰山はその総本山的な存在で、今も山伏が修行に通う『生きた宗教の山』として機能している。2004年(平成16年)にユネスコ世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の中核として登録された。
山上ヶ岳と八経ヶ岳、二つのルート
山上ヶ岳ルートで最もよく使われるのは、天川村の洞川温泉から登る清浄大橋ルート(清浄大橋登山口・標高約780m発)。清浄大橋から女人結界門・お助け水・洞辻茶屋を経て山上ヶ岳の山頂寺院・大峯山寺へ。登り約3時間、下り約2時間。山上ヶ岳は現在も女人禁制が継続されており、清浄大橋にある『女人結界門』から先は男性のみ進入可能。1,300年間続いている宗教伝統で、UNESCO世界遺産登録後も変更されていない。
近畿最高峰の八経ヶ岳に登るなら、行者還トンネル西口(標高1,094m)から登る行者還ルートが標準。トンネル西口から奥駈道出合・弁天の森・聖宝ノ宿跡・弥山小屋を経て八経ヶ岳まで登り約3時間30分、下り約3時間。弥山(みせん、1,895m)と八経ヶ岳を二座セットで踏むのが定番のコース取りで、弥山小屋に一泊して八経ヶ岳を翌朝早く踏むプランも人気だ。八経ヶ岳ルートは女人禁制ではないため、誰でも登れる。
縦走を組むなら、世界遺産の大峯奥駈道(おくがけみち)が最大のスケールを持つ。吉野(吉野山)から大峰山脈の主稜を縦走して、熊野本宮大社まで全長約170km、所要約7〜10日の長距離信仰路。修験者の最も伝統的な修行ルートで、現代では一般登山者も縦走の対象にする。ただし水場・避難小屋・道標が限られた区間が多く、修験道の歴史を理解した上での経験者向けルートだ。
大峰山アクセス、洞川温泉から登る
大峰山アクセスは、奈良県南部という地理的制約から首都圏より関西圏ハイカーの方が圧倒的に近い。大阪・難波から近鉄電車で下市口駅まで約1時間40分、駅前から奈良交通バスで洞川温泉まで約1時間20分。難波を朝6時に出れば10時には洞川温泉に立てる。マイカーは京奈和自動車道・五條北インターチェンジ下車、国道169号経由で洞川温泉まで約1時間30分。
八経ヶ岳の起点となる行者還トンネル西口は、洞川温泉から南に車で約30分。公共交通でのアクセスはほぼ不可能に近く、マイカーまたは洞川温泉の旅館・タクシー手配が必須になる。週末早朝5〜6時には西口の駐車場(無料・100台程度)が満車になる人気の山なので、前夜泊または夜明け前到着が現実的な選択肢になる。
山上ヶ岳の女人禁制、宗教としての山
山上ヶ岳の女人禁制は、修験道の伝統に基づき7世紀末から1,300年継続されてきた。明治5年(1872年)に明治政府が全国の女人禁制を解除したが、大峰山では地元と修験道宗派の合意のもとで継続が選ばれた。2004年の世界遺産登録に際してもジェンダー問題として国際的議論があったが、現在も維持されている。隣接する稲村ヶ岳は1960年(昭和35年)から女性も登れるよう開放され、女性修験者の修行の場として機能している。
山上ヶ岳の山頂には大峯山寺の本堂が立つ。5月3日の戸開け式から9月23日の戸閉め式までの期間のみ参拝可能。山頂直下では西の覗き(にしののぞき)と呼ばれる断崖の上から命綱だけで身を乗り出す行が今も行われている。修験者でなくとも登山者として体験することができ、「親孝行するか」と問われて頷くまで引き上げてもらえないという、現代日本にこれが残っているのかと思うほど真摯な宗教実践がそこにある。
八経ヶ岳、オオヤマレンゲ、近畿最高峰
八経ヶ岳の山頂は近畿地方の最高点だ。山頂から南北に大峰山脈の稜線が伸び、北に弥山、南に明星ヶ岳・釈迦ヶ岳が連なる。山頂直下の弥山と八経ヶ岳の鞍部にはオオヤマレンゲ(大山蓮華)の群落がある。7月初旬に純白の花を下向きに咲かせる落葉低木で、国の天然記念物に指定されている。シカの食害から守るため周辺に防鹿柵が設置されており、近年は数を回復しつつある。
弥山山頂(1,895m)の弥山小屋(営業期間5月〜10月)は大峰山脈で最大の山小屋で、定員約100名、テント場併設。八経ヶ岳ピストンを軸に、奥駈道の縦走拠点としても重要な機能を担う。山頂神社の弥山神社は天河大弁財天社の奥宮で、芸能の神様として知られる弁財天を祀る。
大峰山の装備、服装、季節
大峰山の装備は、近畿圏の本格的な山岳として組む。山上ヶ岳・八経ヶ岳のいずれもミッドカット以上のトレッキングシューズ、20〜30Lザック、化繊またはメリノの長袖、薄手フリース、防水透湿レインジャケット、ニット帽と薄手のグローブが基本セット。西の覗きに挑む場合は安全帯(ハーネス)が貸与されるが、登山服装としての特別な装備は不要だ。
大峰山の服装と季節について、推奨される登山シーズンは5月から10月。山上ヶ岳の大峯山寺は5月3日(戸開け式)から9月23日(戸閉め式)までの開山期間のみアクセス可能。8月のオオヤマレンゲ、6月のシャクナゲ、10月の紅葉が三大ピーク。冬は積雪と凍結で大峯奥駈道は閉鎖に近い状態となり、大峰山の冬季登山は経験者の領域に入る。水場は弥山小屋・洞辻茶屋などで補給できるが、稜線上の天然水源は少ないため、夏季は最低2Lを担ぐ。
洞川温泉は標高約820mの修験者の宿場町として1,300年の歴史を持つ。木造旅館が並ぶ歴史的な街並みは奈良県の景観形成地区に指定されており、温泉街そのものが修験道の祈りの場として機能してきた。ごろごろ茶屋・大峯山寺の街頭講・行者宿といった独特の文化が今も残り、山に登らない人でも『修験道とは何か』を体感できる土地として知られる。山上ヶ岳に登る修験者は今も洞川温泉で一泊し、翌朝登山口に向かうのが伝統的な行程だ。
釈迦ヶ岳、玉置山、熊野へ
大峰山を踏んだ次の選択肢は、大峰山脈をさらに南へ進む流れだ。八経ヶ岳の南、釈迦ヶ岳(1,800m)は山頂に大きな釈迦如来像が立つ独特のピークで、大峯奥駈道の南半分の核心区間にある。さらに南には玉置山(たまきさん、1,076m)、そして最終地点の熊野本宮大社に至る。これは紀伊山地の信仰そのものを歩く全行程だ。
本格的な登山対象としては、隣接する稲村ヶ岳(1,726m)が大峰山系の女人禁制解除ピークとして並び立つ。さらに視野を広げれば、北の大台ヶ原山(1,695m、百名山)と組み合わせれば、紀伊山地の二大山岳エリアを一度の旅で体験できる。大峰山は単なる登山対象ではなく、日本にまだ生きている宗教の山を歩くという稀有な経験を提供する一座だ。