近江と美濃を分ける独立峰、近畿の象徴
伊吹山は標高1,377m、滋賀県米原市と岐阜県不破郡関ケ原町・揖斐郡揖斐川町の県境にそびえる独立峰だ。近江と美濃の境界に立つ独立峰として、古くから琵琶湖周辺と岐阜県側双方から仰がれる存在だった。深田久弥は『日本百名山』で伊吹山を取り上げ、近畿地方を代表する独立峰として位置づけた。山体は石灰岩を主体とする独特の地質で、薬草の宝庫として古来より知られる。
伊吹山の歴史は、ヤマトタケルが伊吹山の神に敗れた『日本書紀』『古事記』の神話に遡る。古代から修験道の修行場として、また平安時代以降は薬草採集の山として、宗教と医薬の両面で重要視されてきた。江戸期には織田信長の命により薬草園が開かれ、現在も伊吹山山頂部には日本固有の薬草が数百種類自生する「薬草の山」として知られる。山麓の関ヶ原は1600年の天下分け目の合戦の舞台でもあり、伊吹山の山頂からは関ヶ原盆地が眼下に広がる構図が見える。
上野登山口、九合目を経て山頂へ
伊吹山ルートで最も標準的なのが、滋賀県米原市の上野登山口(標高220m)から登るルート。標高差約1,160mを一日で歩き通すコースで、コースタイムで登り3時間半・下り2時間半。一合目から十合目まで合目ごとに区切られ、樹林帯・草原・お花畑と植生が変化する構成。三合目より上は森林限界を超え、伊吹山特有の草原・薬草の景観が広がる。
もう一つのアクセス手段が伊吹山ドライブウェイで、山頂直下の九合目駐車場までマイカーで上がれる。九合目から山頂までは徒歩約30分の整備された遊歩道で、観光客と登山者が山頂部で交差する構造が伊吹山の特徴の一つになっている。ドライブウェイは4月から11月の運行で、冬季は閉鎖される。本格的に登山として登るなら上野登山口、観光と組み合わせるならドライブウェイ、と利用層によって使い分けがなされている。
薬草の山、伊吹山固有の植物相
伊吹山の山頂部は、日本固有の薬草が数百種類自生する独特の植物相を持つ。石灰岩を主体とする地質と、日本海側気候の影響を強く受ける位置関係から、本州の他の山では見られない植物群落が形成されている。シモツケソウ、サラシナショウマ、コオニユリ、イブキトリカブト(伊吹山固有種)など、伊吹山の名を冠する植物が数多く存在し、夏季の山頂部はお花畑として知られる。
高山植物の保護は伊吹山の課題でもある。観光客の踏み荒らしによる植生破壊が長年問題視され、現在は山頂遊歩道に保護ロープと木道が整備されている。登山道から外れて植生帯に踏み込むことは厳禁で、撮影目的であってもロープの内側に入ることは認められない。伊吹山に登るという行為は、薬草と高山植物の歴史的な宝庫を歩くことであり、その保護に協力することでもある。
世界最大級の積雪記録、雪山としての顔
伊吹山は、1927年(昭和2年)2月に積雪11.82mという世界最大級の積雪記録を記録したことで気象学的にも知られる。日本海から吹き付ける北西季節風が伊吹山に直撃して大量の雪を降らせる地形で、現在も冬季は豪雪地帯となる。冬季の伊吹山は雪山登山の対象として人気が高く、近畿圏の登山者が雪山訓練の場として利用する。ただし冬季の伊吹山は雪崩・吹雪のリスクが高く、上級者の領域に変わる。
伊吹山の時期は、登山シーズンとして無雪期に関しては概ね4月から11月。ドライブウェイの運行期間(4月中旬〜11月末)が登山シーズンとほぼ一致する。7月下旬から8月中旬の高山植物開花期、10月下旬の紅葉が見頃の時期は最も登山者が集中する。夏でも山頂は風が強く気温が下がるため、フリースと防風防水のレインウェアは省けない。
伊吹山の服装と装備は、1,400m級の長時間行動を前提に組む。シューズはミッドカット以上の登山靴、ザックは日帰りなら20Lで十分。上野登山口からは標高差1,160mを登るため、夏季は熱中症対策と水分補給が死活問題になる。冬季登山ではアイゼン・ピッケル・厳冬期用シェル・予備の防寒着が必須で、雪崩への警戒も求められる。山頂は風が常時強いため、薄手のウィンドシェルを携行したい。
伊吹山の山頂から見るご来光は、東に関ヶ原盆地と岐阜の山並み、南に琵琶湖と近江盆地、西に比良山地、北に日本海と若狭湾という、近畿地方の中心に立つ独立峰ならではの構図になる。冬季の晴天時には琵琶湖が一望でき、近畿地方の山では稀な広大な眺望を提供する。新月期の夏の夜は、近畿地方の標高1,400mから見る星空が、伊吹山の独立峰の暗さと組み合わさり、近畿圏でも有数の星空観望地として知られる。
近江長岡駅、米原駅、伊吹山ドライブウェイ — アクセス
伊吹山のアクセスは、JR東海道本線近江長岡駅または米原駅から湖国バスで伊吹登山口(上野)まで約20〜30分。マイカーの場合は上野登山口周辺の駐車場(有料)まで車で入れる。伊吹山ドライブウェイは岐阜県側の関ヶ原ICからアクセスし、九合目までマイカーで上がれる(有料)。冬季は閉鎖。
首都圏からは新幹線で米原駅まで約2時間、関西圏からは京都駅・大阪駅から米原駅まで約1時間。マイカーなら名神高速道路関ヶ原IC・米原ICから約20分。近畿地方の主要交通網から最もアクセスしやすい1,400m峰として、伊吹山は関西圏の登山者にとって週末登山の対象として根強い人気を持つ。下山後は米原市の鄙びた温泉、関ヶ原の合戦場の史跡などを組み合わせる。伊吹山に登るという行為は、薬草と神話と豪雪の三つの文脈が重なる独立峰を歩くことであり、近畿地方の山岳史の中心に立つことでもある。