高麗の里を見下ろす三〇五メートル
日和田山は埼玉県日高市にある標高305mの山である。奥武蔵の山域の東の入口にあたり、関東百名山に選ばれ、日高市のシンボルとして親しまれてきた。標高だけを見れば、山というより丘に近い数字だ。それでも週末の高麗駅には登山靴の人が絶えない。理由は単純で、駅から歩いて登山口に届き、半日で往復でき、しかも山頂に立つ前の中腹で、この山にしかない景色が開けるからである。
山頂からの眺めは数字の印象より広い。関東平野を見渡し、条件のよい日には新宿の高層ビル群や東京スカイツリーまで視認できるとされる。首都圏の平野を一望する低山そのものは珍しくないが、日和田山の場合、その眺めに至るまでの道が短い。日和田山登山が「超入門の山」として語られてきたのは、この距離感の近さによる。
男坂と女坂、鳥居までの分かれ道
日和田山ルートは、登山口から少し登った地点で二手に分かれる。日高市の案内によれば、男坂は二の鳥居まで15分ほど、女坂は20分ほど。差は5分だが、道の性格はまったく違う。市は男坂を「ゴツゴツとした岩場があり場所によっては手を使って登らなければならない急傾斜の場所」と書き、女坂を「緩やかなルート」と説明する。同じ山頂に二通りの記憶で着ける、という構造がこの山の面白さだ。
高度の目安になるのが二つの鳥居である。山と高原地図Webは一の鳥居を標高170m、金刀比羅神社の建つ二の鳥居を260mとしている。男坂・女坂が受け持つのは実質この90mほどの区間ということになる(編集部の試算)。二の鳥居から305mの山頂までは、さらにひと登り。日本山岳会が紹介するコースタイムでは、高麗駅から登山口まで20分、登山口から日和田山まで40分。駅を出て1時間ほどで山頂、という計算が成り立つ(編集部の試算)。いずれにせよ、一日を丸ごと使う山ではない。
鳥居の下に、川が描いた輪
日和田山の代名詞は、山頂ではなく金刀比羅神社の二の鳥居である。鳥居は南を向いて立ち、その二本の柱のあいだに、高麗川が大きく蛇行して作った平地——巾着田が一枚の絵のように収まる。日本山岳会の記録は、ここから巾着田、高麗駅、天覧山越しの飯能までが「箱庭の様に」望め、運がよければ西武ドームやスカイツリーも見えると書いている。
巾着田は直径約500m、面積約22haの平地で、川が土地をぐるりと囲い込んだ形が巾着袋に似ることからその名がついた。地上を歩いているかぎりは河原と田畑にしか見えない。ところが鳥居の高さまで上がると、川が自分で作った輪の内側に集落と田が収まっている構造が、一目で読み取れるようになる。地形図を開かずに地形が理解できる場所は、そう多くない。日和田山を登るという行為の核心は、山頂よりむしろこの一点にある。
二の鳥居の前は、標高260mとは思えないほど人の滞在時間が長い場所である。登り切った人がまず腰を下ろし、しばらく巾着田を眺めてから山頂へ向かう。山頂を踏まずにここで引き返す人さえいる。日和田山を「山頂を目的にしない山」と呼べるとしたら、その理由はこの鳥居にある。
岩に登れた時代の名残
登山道の脇には男岩・女岩と呼ばれる岩壁がある。首都圏から近い岩登りの練習場として長く知られ、ここで初歩を覚えたクライマーは少なくない。ただし現在、この岩は登るための場所ではない。日高市は「男岩・女岩などでのロッククライミングによる死亡事故が発生」していることを告知し、「絶対に登らないでください」と明記している。複数の死亡事故を経て登攀が禁じられた、という経緯である。
2026年9月時点でも、日高市のページにこの記載は残っている。ハイキングコースから岩の基部までは近く、歩いていれば岩そのものは自然に目に入る。それでも、「練習場だった」という過去形を現在形と取り違えないことが、この山を歩くうえでの最低限の作法になる。日和田山でロープを出す行為は、もう認められていない。岩の記憶は、登るためではなく知っておくために残されている。
赤い十六日間と、残りの十一か月
巾着田の名を全国に広げたのは曼珠沙華である。日高市は巾着田を「500万本の曼珠沙華群生地」と紹介し、彼岸の時季に芽を出して咲くと説明する。巾着田の管理側は9月から10月中旬ごろまで、電話の自動音声で開花状況を案内している。鳥居の下から見下ろす巾着田が赤く染まるのは、一年のうちこの数週間だけだ。
2026年は、巾着田曼珠沙華まつりが9月21日(月・祝)から10月6日(火)まで開催される。開園は午前9時から午後4時30分、入場料は1人500円。会期中の9月21・22・23・26・27日と10月3・4日には無料シャトルバスが30分間隔で運行される。駐車場は普通車500円・バイク100円・バス3,000円で、利用時間は午前7時から午後5時(いずれも日高市の告知、2026年9月時点)。なお群生地の中では三脚・一脚は使用できない。
この十六日間、日和田山の登山道は一年で最も混む。鳥居から赤い巾着田を見下ろす構図を狙う人が集中するためで、道幅の狭い男坂は待ちの生じやすい区間になる。花と山を両方きちんと見たいなら、会期前半の平日か、開園前の早い時間に登って鳥居から眺め、下りてから巾着田に入る順序が歩きやすい。
曼珠沙華の季節があまりに強いため見落とされがちだが、日和田山の時期は秋だけではない。日本山岳会は、春の彼岸のころに路傍のスミレやシャガの群生、木立の中の梅、コブシ、サクラ、レンギョウが咲くと記している。夏は標高が低いぶん暑さが正面から来る季節で、樹林の中を登る女坂のほうが体力的に無難になる。305mという高さは、季節の厳しさを和らげてはくれない。
装備は低山日帰りの範囲で足りるが、男坂を登るなら話は変わる。岩に足を置く場面があるため、靴底の効く登山靴と、両手を空けられるザックは外せない。服装は季節相応でよく、むしろ「近所の山だから」と手ぶらに近い形で入らないことのほうが重要になる。日高市はこの山域にクマやイノシシ、シカやサルが生息していることを案内している。低いことと安全であることは、同じではない。
高麗駅から歩き始める一日
日和田山アクセスの基本は西武池袋線の高麗駅である。日高市は高麗駅から登山口まで徒歩約25分、JR高麗川駅からは徒歩約55分としている。山と高原地図Webは駅から登山口まで徒歩15分と、やや短い数字を示す。いずれにせよ、駅を出てそのまま歩き出せる山であることに変わりはない。車の場合は圏央道の狭山日高ICから巾着田駐車場まで約20分。登山口にも有料駐車場があり、1日300円、収容は約50台とされ、料金は料金箱に投入する簡易方式である。日本山岳会の記録は、この登山口にトイレと東屋があることにも触れている。曼珠沙華の時期に車で入るなら、巾着田の駐車場に停めて歩き出す形が現実的だ。
山頂で引き返さない選択もある。日本山岳会が紹介する縦走では、日和田山から高指山まで20分、物見山(375.4m)まで35分、さらに高さ7mほどの五常ノ滝を経て25分、武蔵横手駅まで30分。高麗駅から入って武蔵横手駅へ抜ける一本の線になり、往復よりはっきり歩きごたえが増す。
日和田山の価値は、標高でも難易度でもない。駅から一時間ほどで、川が土地を一周した形を鳥居越しに見下ろし、登れなくなった岩の前を通り、秋には五百万本の赤の上に立つ。そこまでを半日で往復できてしまうという密度に、この山の輪郭がある。奥武蔵の尾根はここから北へ延びていて、多くの人が最初の一歩をこの305mで踏み出している。