「両飾」が「雨飾」に転じるまで
雨飾山は長野県北安曇郡小谷村と新潟県糸魚川市の県境に立つ標高1,963mの山である。頸城連峰の西端を占め、妙高戸隠連山国立公園の一角にあたる。環境省はこの公園を「火山・非火山の結集地」と呼ぶ。火山群と非火山性の山塊が隣り合う一帯の、日本海に最も近い側に雨飾山は置かれている。
山名の来歴には諸説ある。雨、あるいは天を祀る意味の「アマ山」に由来するという説が一つ。もう一つは、二つのピークを持つ双耳峰であることから「両飾山」「両粧山」と呼ばれ、「両」がやがて「雨」に転じたとするものだ。どちらにせよ、名に「飾」の字が残ったことは変わらない。
深田久弥は百名山の一座にこの山を選んだが、最初の挑戦では山頂に立てていない。新潟県側から登ろうとして道を失い、途中で断念したことを『山頂山麓』に書き残している。標高差は700m台、日帰りで登れる山でありながら、道は一筋縄ではいかない。
ブナ林の先で、布団菱の下に出る
雨飾山登山の主軸は、長野県側の小谷温泉の奥から入る道にある。雨飾高原キャンプ場が登山口で、その標高は1,200m。ここから山頂までの標高差は763m、距離にして4,400m、片道の目安は約4時間と、キャンプ場の案内は示している。小谷村の公式情報も登り約240分・下り約210分としており、数字はおおむね重なる。山と高原地図Webの往復6時間35分は、これよりやや締まった見積もりだ。いずれにせよ、標高差700m台に半日を充てる配分である。距離は短い。だが速くは歩けない。
歩き出しは穏やかだ。湿原の木道を渡り、ブナの樹林帯に入る。幹が根元から大きく曲がったブナが続く、豪雪地帯らしい森である。
登り4時間のうちのほぼ中間点が荒菅沢で、多くの登山者がここで腰を下ろす。そして荒菅沢は、樹林のトンネルが断ち切られる場所でもある。沢へ降りて顔を上げると、正面に布団菱と呼ばれる巨大な岩壁が立ち上がっている。山と高原地図Webはこれを迫力ある岩壁と記し、下山時には右手に見えると添えている。樹林帯を歩いてきた目には、その出現があまりに唐突だ。
荒菅沢から先が、この山の体力的な核心になる。急登とガレ場が連続し、ロープやハシゴを使う箇所がある。山と高原地図Webはハシゴ区間について、ストックを仕舞うこと、三点支持を徹底すること、前後の登山者と間隔をあけることを挙げている。
笹平で、歩いてきた道が女神になる
岩と土の急登を抜けると、風景が切り替わる。笹平と呼ばれる一帯で、名のとおり笹の草原が広がる緩やかな台地だ。それまで数時間、足元と岩しか見ていなかった視線が、ここで一気に遠くへ飛ぶ。
山頂部は「猫の耳」と呼ばれる双耳峰になっている。南峰には標柱と三角点が置かれ、北峰には石仏が並ぶ。石仏は北、日本海の側を向いている。雨飾山が登山の対象になる以前から、麓に仰がれ祀られてきた山だったことを静かに示す配置である。
そして、この山が最も知られている光景は、山頂に立って振り返ったときに現れる。南側のピークから笹平を見下ろし、山頂へと続く登山道を目でなぞっていくと、その道筋が女神の横顔の輪郭になる。額から鼻、唇、顎へと続く線が、笹原に刻まれた一本の道として浮かび上がる。雪形でも岩の造形でもない。人が歩いて踏み固めた跡が図像になっているという点で、これは他の山の名所とは性質が違う。雨飾高原キャンプ場も、笹平から山頂までの道が女性の横顔に見えることから名付けられたと説明している。立つ位置と光の向き、笹の色づき具合で見え方が変わるため、同じ横顔を二度見ることはない。
深田が引き返した斜面から
ルートは小谷温泉側だけではない。新潟県糸魚川市側からは、雨飾温泉を起点に薬師尾根を詰める道がある。距離は短く、そのぶん急登が続く尾根だ。深田久弥が道を失って引き返したのもこちら側であり、新潟県側から登るという行為には、百名山の書き手が一度敗れた斜面を辿るという意味が乗る。
雨飾温泉は梶山新湯として長い歴史を持つ温泉地で、一軒宿の雨飾山荘が立つ。同じ登山口からは金山(2,245m)へ向かう道も分かれている。アクセスは、JR北陸本線糸魚川駅から糸魚川バスで約30分の山寺上入口バス停が最寄りになるが、そこから登山口までは約4.8km、徒歩約2時間30分を要する。バスだけで登山口に立つのは現実的ではない。糸魚川駅からタクシーで約45分、あるいは予約制の「雨飾山登山タクシー」が実質的な選択肢になる。車なら北陸自動車道糸魚川ICから約20km、駐車場は60台分ある。
二つの登山口は県境を挟んで反対側にあり、車で回り込むとかなりの距離になる。小谷温泉側から登って雨飾温泉側へ抜ける縦断を考える場合は、下山後の移動手段を先に確保しておくこと。公共交通の本数は多くない。
雪渓の六月と、店じまいの十月
豪雪地帯の山らしく、この山の季節は両端を短く切り詰められている。雨飾高原キャンプ場のスタッフが勧める時期は7月中旬から下旬。6月中旬には荒菅沢に雪渓が残ることがあり、山と高原地図Webは、傾斜がないため通常はアイゼン不要としつつ、直前の情報を確認し、不安があればチェーンスパイクや軽アイゼンをザックに入れておくよう促している。逆の端も早い。小谷村が秋の交通規制を敷く期間は10月下旬で終わり、紅葉が抜ければこの山はもう冬の側にある。
紅葉期は登山者が集中する。キャンプ場の案内は登山者渋滞が発生すると明言しており、小谷村も急な岩場で最大90分待ちの混雑が起きた実績を伝えている。ハシゴとロープの区間がある以上、人が増えれば通過に時間がかかる。行動時間の見積もりには、地図のコースタイムに余裕を足しておくほうがいい。
装備は日帰り前提で組むが、行動時間が長いことを織り込んだ内容が要る。ロープやハシゴを使う急登があるため、手を自由に使える形にザックをまとめること。服装は笹平に出てからの風を想定し、羽織れるものを一枚。水は登山口で満たしておく。登山口には水洗トイレと手洗い場、水場と売店があるが、登山道上にトイレはない。携帯トイレの持参が求められ、登山口には携帯トイレの自動販売機が置かれ、小谷村は500円で販売している。長野県では登山届の提出が条例で義務化されている。
満車の朝と、雨飾荘より上のゲート
長野県側の小谷温泉口登山口には第1・第2の駐車場があるが、あわせても収容は数十台にとどまり、この山の人気には追いついていない。山と高原地図Webの記録は、土曜日の朝6時過ぎにはすでに満車だったと書いている。路肩への駐車は禁止されており、停められなければ計画そのものが成立しない。
そこで秋には交通規制が敷かれる。小谷村は2025年の紅葉期に、9月20日から10月26日までの土曜・日曜・祝日、駐車場が満車になった時点で雨飾荘より上部を通行止めとする規制を実施した。満車の時点で、その日の登山口は閉じるということだ。2026年9月時点でも、秋の週末には同種の規制が敷かれる前提で計画を立てるのが現実的だろう。前夜のうちに入るか、平日に回すか、いずれかの判断が要る。
冬から春にかけては、そもそも登山口まで車が入らない。小谷村は2026年4月24日時点で、積雪により登山口まで車でアクセスできないと伝えていた。林道姫川妙高線の冬期閉鎖が一部区間で解除されたのは2026年5月22日である。道が開くのは5月下旬以降と見ておくのが安全で、林道と県道の状況を確認せずに現地へ向かえば、ゲートの前で引き返すことになる。6月には大網側の前沢登山口を会場に開山祭が開かれ、そこからこの山の一年が始まる。
標高1,963m、標高差700m台、日帰りの山。数字の上では、雨飾山は百名山のなかでも小ぶりな部類に入る。それでも人を引き寄せ続けているのは、ブナ林の先に布団菱の岩壁があり、それを越えた笹平に、自分がいま歩いてきた道が女神の横顔として残されているからだ。登った道が景色になる山は、そう多くない。