ほんとの空、智恵子の山
安達太良山は福島県中通り地方、二本松市・郡山市・福島市・猪苗代町・大玉村にまたがる標高1,700mの活火山である。山頂部の岩塊「乳首」と呼ばれる独特の形状で知られ、深田久弥の日本百名山では「東北のなかで最も親しみやすい山」と評されている。詩人・高村光太郎の妻・智恵子の生まれた山として、「智恵子抄」に詠まれた「ほんとの空」の山として全国に知られ、登山対象としてだけでなく文学的な巡礼地としての性格も持つ。気象庁の常時観測火山に指定され、現在も山頂北西の沼ノ平火口から硫黄ガスを放出する現役の活火山だ。
安達太良山ルートと初心者の入口
安達太良山ルートは複数あるが、最も使われるのは奥岳登山口(あだたらエクスプレス・ロープウェイ)を起点とするコース。標高950mの奥岳から、あだたらエクスプレスで山頂駅(標高1,350m)へ約6分。山頂駅から薬師岳・仙女平分岐を経て山頂までは登り約1時間30分、下り約1時間。標高差350m、コースタイム3時間半で日帰り可能な構成は、東北の百名山のなかで指折りに易しい部類に入る。
より歩き応えのある登山者には、奥岳登山口→勢至平→くろがね小屋→峰の辻→山頂の周回コース(登り約3時間半、下り約2時間半)が推奨される。途中のくろがね小屋は標高1,346mに位置する温泉付きの山小屋で、登山道の途中で温泉に入れるという、関東以北の登山対象としては例外的な施設だ。塩沢温泉登山口、横向温泉登山口、沼尻登山口など、福島市側からの登山口も複数あり、目的と日数に応じて選び方が広がる。
安達太良山アクセス、新幹線と高速バス
安達太良山アクセスは、東北新幹線の郡山駅または二本松駅を起点に整理できる。東京から郡山駅まで約1時間20分、郡山駅から福島交通バスで「奥岳登山口」まで約1時間(夏季・登山シーズン限定運行)。バス運行期間外はJR二本松駅または郡山駅からタクシーで30〜40分。
マイカーの場合は東北自動車道・二本松ICまたは郡山JCTから30分で奥岳登山口に到達できる。奥岳登山口駐車場は無料・約1,000台(あだたらリゾート併設)で、紅葉期の週末以外は混雑することは少ない。前泊なら岳温泉郷の宿が選ばれる。岳温泉は標高約600mの高原温泉郷で、安達太良山の硫黄泉を引湯した源泉が30軒以上の宿に供給されており、登山との組み合わせとしては好相性だ。
くろがね小屋、登山道の温泉
安達太良山の最大の特色のひとつが、登山道の途中にあるくろがね小屋の存在だ。標高1,346mに位置するこの小屋は、福島県山岳総合体育館の管理で、通年営業(冬季もアクセス可能)。最大の特徴は、小屋内に乳白色の硫黄泉が引湯されていることで、登山者は当日宿泊しなくても立ち寄り入浴が可能だ(要問い合わせ、季節・状況によって運用が変わる)。
くろがね小屋を経由する周回コースは、奥岳から勢至平を経て小屋に立ち寄り、峰の辻で山頂を踏み、薬師岳経由でロープウェイ山頂駅に戻る構成で、距離約9km・コースタイム約6時間。前泊なら奥岳の宿、当日下山せず小屋に泊まる構成にすれば、登山道の途中で温泉に泊まるという東北以北では珍しい体験になる。なお、くろがね小屋は2023年から建て替え工事が進められており、再オープン時期は最新情報の確認が必要だ。
沼ノ平火口、火山ガスへの注意
安達太良山の山頂直下、北西側には沼ノ平火口と呼ばれる直径1.2km、深さ100mの巨大な火口が広がる。1997年9月、この火口内の登山道で硫化水素中毒による死亡事故が発生し、現在も沼ノ平火口内および火口縁の一部は立入禁止区域となっている。山頂から牛ノ背・馬の背を経由する縦走路の一部にも風向きによって火山ガスが流れ込むことがあり、強風時を除き火山ガスは安達太良山で最も注意すべきリスクのひとつになっている。
気象庁は安達太良山を常時観測火山に指定しており、噴火警戒レベルが日々更新される。レベル1(活火山であることに留意)が通常状態だが、レベル変動時には山頂部に立入規制が出る。出発前の確認は必須で、登山口の案内板にも最新情報が掲示されている。
安達太良山の装備と服装、季節
安達太良山の装備は、標高1,700mの活火山を歩く前提で組む。夏でも山頂気温は15℃前後、強風時の体感は10℃を切る。化繊またはメリノの長袖、薄手のフリースかウィンドシェル、防水透湿のレインジャケット、薄手の手袋までを基本セットとする。靴はくるぶしを覆うトレッキングシューズが必須で、特に山頂直下の岩塊「乳首」周辺は両手を使う場面もあるため、ストックの収納と足元のグリップが重要になる。
安達太良山の服装は、季節幅を持たせる。安達太良山の時期は5月から11月初旬まで、最盛期は7月から10月で、9月下旬から10月中旬の紅葉が稜線を染める時期は東北南部のなかで最も評価が高い。ナナカマド・ダケカンバ・ハイマツの紅葉が、沼ノ平火口の白い火山灰地と対比される構図は、安達太良山にしかない。冬季はロープウェイがスキー場のリフトとして運行されるが、登山道は積雪・凍結で本格的な雪山となる。水場は登山道上に確実なものはなく、最低1.5Lを担ぐ。火山ガスの強い日には湿らせたバンダナを口元に当てる準備をしておきたい。
高村光太郎の詩集『智恵子抄』のなかで、智恵子が「東京には空がない」と語った場面は、長沼智恵子の故郷である二本松市油井の生家から見上げた安達太良山の空を指している。生家は現在「智恵子記念館」として公開されており、登山前後に立ち寄ると、登る山の文化的な厚みを実感できる。
山頂「乳首」、そしてほんとの空
安達太良山の山頂は、山体から突き出した岩塊で構成され、その独特な形状から地元では「乳首」と呼ばれる。最高点(1,700m)は岩塊の上に立ち、20m四方ほどの狭い岩稜となっている。東に阿武隈高地と太平洋、西に磐梯山と猪苗代湖、北に吾妻連峰、南に那須連山と日光連山を一望でき、晴れた日には飯豊連峰や蔵王連峰までを視界に収められる。空気の透明度が高い秋・冬の朝には、東京湾の方角が見通せる日もある。
下山後の温泉は岳温泉郷、奥岳温泉、または猪苗代湖畔の中ノ沢温泉が選ばれる。次に福島・栃木の百名山を続けるなら、東に磐梯山、北に吾妻山、南に那須岳が自然な選択肢になる。安達太良山に登り終えた後、岳温泉の宿の窓から再びこの山を見上げたとき、「ほんとの空」という言葉が、智恵子の記憶のなかでどんな色をしていたのかが、少しだけ自分のものとして想像できるようになる。