戦後まもない日本に、山の頂からひとつのニュースが届きました。1956年5月9日、日本隊がマナスル(8,163m)に初登頂。日本人が初めて8000m峰の頂に立った瞬間でした。
頂に立ったのは、隊員の今西壽雄(いまにし・としお)と、シェルパのギャルツェン・ノルブ。敗戦の傷がまだ癒えぬ国にとって、この知らせは「日本は世界に挑み、成し遂げられる」という希望そのものでした。マナスル初登頂が、なぜ国民的な熱狂を生んだのか。その物語をたどります。
なぜ日本はマナスルを目指したのか
1950年代、ヒマラヤの8000m峰は各国の威信をかけた競争の舞台でした。アンナプルナ(フランス、1950年)、エベレスト(イギリス、1953年)、K2(イタリア、1954年)——欧米の登山大国が次々と初登頂の栄誉を手にしていきます。
日本山岳会は、まだどの国も登っていなかったネパール中部のマナスルに照準を定めました。隊を率いたのは、1921年にアイガー・ミッテルレギ稜の初登攀で世界に名を刻んだ槇有恒(まき・ゆうこう)。日本の近代登山を切り拓いた世代が、満を持して8000mへ挑んだのです。
二度の失敗と、村との対立
マナスル初登頂は、一度で成し遂げられたわけではありません。日本隊は1952年の偵察、1953年・1954年の挑戦と、足かけ数年にわたって登頂に挑み、悪天候や雪崩に阻まれて撤退を重ねました。
さらに難しかったのが、山麓の人々との関係でした。マナスルは地元で信仰される聖なる山であり、隊の入山後に村で不幸が続いたことから、「外国人が神を怒らせた」として一時は入山を拒まれる事態にもなります。登山は、自然だけでなく現地の文化や信仰とも向き合う営みであることを、この一件は物語っています。
1956年5月9日、頂上の日章旗
粘り強い交渉と準備の末、1956年、日本隊はついに最終アタックの態勢を整えます。そして5月9日、今西壽雄とギャルツェン・ノルブがマナスルの頂に立ちました。日本人初の8000m峰登頂です。翌11日には第二次アタック隊も登頂し、成功を確かなものにしました。
頂上に翻る日章旗の写真は、新聞各紙の一面を飾りました。エベレスト初登頂が戦後のイギリスを勇気づけたように、マナスルの報は、復興の途上にあった日本人の心を大きく揺さぶったのです。
戦後日本を沸かせた「マナスル景気」
マナスル登頂の熱狂は、社会現象にまで発展しました。登山用品が飛ぶように売れ、子どもたちは「マナスル」の名を冠した文房具に憧れました。新聞・ラジオは連日この偉業を報じ、人々の目は一気に「山」へと向きます。
- 登山ブームの点火: 一般の人々が趣味として山に登る文化が、ここから大きく広がった。
- 用品産業の成長: 国産の登山装備メーカーが力をつける契機となった。
- 次世代への影響: この熱気のなかで山に憧れた世代が、のちの植村直己や女性登山家たちへと連なっていく。
一座の登頂が遺した山の文化
マナスル初登頂は、単なる「一つの山に登った記録」にとどまりません。それは、戦後日本が自信を取り戻し、登山という文化が大衆へと根を張っていく出発点でした。今日、私たちが当たり前のように週末に山へ出かけられる土壌の一部は、この1956年の歓喜から育っています。
毎年5月9日は、日本人が初めて8000mの頂に立った日です。剱岳の測量初登頂から約半世紀、日本の登山はついに世界の最高峰群へと届きました。次に山へ向かうとき、その一歩が長い歴史の延長線上にあることを思い出すと、いつもの登山道も少し違って見えてくるかもしれません。