2025年に日本の山で遭難した訪日外国人は246人。統計を取り始めた2018年以降で最も多い数字です。ただ、追いたいのは「増えた」という事実ではなく、訪日客の伸びよりも遭難の伸びのほうがはるかに速い、という非対称のほうです。2026年8月には長野・岐阜・富山の3県が初めて手を組み、全編英語の安全登山啓発動画を公開しました。何が伝わっていないのかを、公表された数字から追いかけます。
訪日外国人の遭難は、統計開始以来の最多を更新した
警察庁が2026年6月18日に公表した「令和7年における山岳遭難の概況等」によると、2025年の山岳遭難は遭難者3,623人で、統計の残る1961年以降で最多でした。このうち訪日外国人は発生件数174件、遭難者246人(うち死者・行方不明者6人)で、前年の99件135人から1年で75件111人増えました。
「訪日客が増えたから」で片づけるには、比率が合いません。日本政府観光局(JNTO)によれば、2025年の訪日外客数は約4,268万人で、前年から15.8%の増加でした。一方で訪日外国人の遭難者は135人から246人へ、82%増えています。
訪日客100万人あたりの遭難者数は、2024年の約3.7人から2025年の約5.8人へ、1.5倍以上になった計算になります。これは警察庁とJNTOの公表値を編集部で割り算した、どちらの役所も出していない指標です。ただ、分母が増えただけでは説明がつかないことは示していると考えます。
訪日客全体を分母とした比率から、登山者一人あたりの遭難リスクが上がったとは判断できません。登山者数や活動内容、山にいた時間の変化は、この統計だけでは分かりません。編集部は、SNSで涸沢や大雪渓、ニセコのパウダースノーが可視化され、分母全体が増えたというより「山に行く率」が上がったのではないかとみています。
訪日外国人の遭難は無事救出が多い一方、死亡事例もある
246人のうち死者・行方不明者は6人、無事救出は181人。全国では死者・行方不明者が9.2%、無事救出が50.0%なのに対し、訪日外国人は2.4%と73.6%です。つまり訪日外国人の遭難は、死者・行方不明に至る割合が全国平均の4分の1程度で、無傷で救助される人が4人に3人を占めます。
この差だけから、遭難原因や体力、登山経験の違いを特定することはできません。訪日外国人の年齢構成や登山者数など、比較に必要な条件がそろっていないためです。無事救出の割合が高くても、死亡例があることと救助を必要とする危険は変わりません。
テレビ信州の報道によると、2026年7月31日、北アルプスの北穂高岳で、フィンランド国籍の20代男性が落とした荷物を拾おうと登山道を外れ、技量不足で行動不能になりました。長野県警のヘリが救助し、けがはありませんでした。滑落でも雪崩でもなく、「戻れなくなった」遭難です。
なお共同通信の報道によると、246人のうちバックカントリースキーや登山をしていた人は合わせて203人で、全体の8割を占めます。冬のバックカントリーと夏の北アルプスという性格の違う2つの流れが、同じ統計に合流している可能性があります。だとすれば、夏山シーズンに向けた対策は、もう一方の流れには届きません。
3県の英語動画が届く場所、届かない場所
2026年8月4日、長野・岐阜・富山の3県が、外国人登山者向けの安全登山啓発動画を公開しました。北アルプスをまたぐ3県の遭難対策担当課による共同制作は初めてです。これまでは県境をまたぐと情報の出どころが変わり、英語の言い回しもそろっていませんでした。
タイトルは「PLAN AHEAD. STAY ALIVE.」。約8分のフルバージョンは7章構成で、ルートの選び方、登山計画と登山届、山小屋のルール・マナー、クマへの備え、推奨される装備などを英語のナレーションとテロップで扱います。YouTubeとInstagramのほか、登山口やQRコード付きのポスターでも展開します。
長野県によれば、県内で春山から秋山のシーズン(4〜11月)に遭難した外国人は、2025年はシーズン全体で24人でした。そして2026年は8月4日の時点ですでに22件36人。前年の同じ時期(9件18人)より13件18人多く、2025年のシーズン全体をすでに超えています。
動画の章立てを見て浮かぶのは、日本の山で外国人がつまずく場所は、たいてい「危険」ではなく「暗黙の前提」の側にある、ということです。槍・穂高の主稜線は山小屋の間隔が短く、地図の上では逃げ場が多く見えます。ところが涸沢ヒュッテをはじめ、北アルプスの主要な小屋は宿泊を予約制に切り替えています(涸沢ヒュッテ「宿泊のご案内」、2026年9月時点)。涸沢ヒュッテは予約なしで泊まる場合、空室があるときにかぎり宿泊料金に2,000円が加算されます。「小屋があるから何とかなる」という読みは、日本では成り立ちません。これは危険情報ではなく、運用の情報です。
登山届も同じです。長野県では2016年7月1日から、県の登山安全条例にもとづいて指定登山道を通行する際の登山計画書の提出が義務づけられています。義務そのものは英語にすれば伝わりますが、どこからが指定登山道なのかまで踏み込むと、情報は途端に日本語の世界へ戻ります。
数字も同じ方向を指しています。長野県警の態様別(件数ベース、母数は県内358件)では、道迷いは34件と前年から12件減る一方、技量不足が「その他」34件のうち20件を占めます。長野県全体で見れば、減っているのは「道が分からない」遭難のほうで、代わりに「その道を自分が歩けるかを見誤る」遭難が「その他」の中で目立ち始めているように読めます。
山で外国人に会ったとき、日本人登山者にできること
2026年9月時点で、行政の対策は入山前に集中しています。届くのは登山口までです。けれど判断が必要になるのは稜線の上で、そこにいるのは同じ道を歩いている私たちです。
- 時刻で伝える:「あと2時間」ではなく「日没は18時ごろ、ここから小屋まで3時間」と、絶対時刻と所要時間をセットで示します。時計と地図アプリの画面を指させば伝わります。
- 予約の有無を聞く:「Do you have a reservation?」の一言が効きます。予約なしで山小屋を目指していると分かれば、引き返しを勧める根拠になります。
- 天気は言葉より画面で:「午後から荒れる」は主観に聞こえます。雨雲レーダーを見せたほうが速く、誤解も生みません。
- 救助要請は110番か119番:相手が慌てているなら、代わりにかけるのも選択肢です。山域名・現在地の緯度経度を地図アプリから読み上げます。
声をかけること自体をためらう必要はない、と考えます。すれ違いざまの「Where are you heading?」は詮索ではなく安全確認で、答えに詰まったり行き先が定まっていなかったりすれば、それが最初のサインです。
まとめ:言葉の壁の向こうにあるのは、判断の壁
訪日客が15.8%増えた年に、その遭難者は82%増えました。無事救出が約4人に3人を占める一方、死者・行方不明者も6人います。この内訳だけで原因や一人あたりの危険度を断定することはできません。
3県の英語動画は、その遭難に至る手前を埋めようとする最初の共同作業です。ただ、動画が届けられるのはルールと装備までで、「この稜線を、今日のこの天気で、自分が歩けるか」という判断までは届きません。言葉の壁の向こうにあるのは、日本の山の運用と判断の基準という、もう一枚の壁です。それを補えるのは、同じ日に同じ山にいる人間だけだと考えます。
言葉の壁を薄くする道具は増えました(YAMATOMOも7言語で使えます)。ただ、稜線で「そろそろ引き返しませんか」と切り出す判断そのものは、まだ人の側に残っています。
参考資料・出典
- 警察庁生活安全局生活安全企画課「令和7年における山岳遭難の概況等」
- 警察庁生活安全局生活安全企画課「令和6年における山岳遭難の概況等」
- 長野県警察本部山岳安全対策課・長野県山岳遭難防止対策協会「令和7年中 山岳遭難統計」
- 長野県「北アルプスを訪れる外国人登山者へ安全登山を発信/長野・岐阜・富山3県が初の安全登山啓発動画を制作」
- 岐阜県「北アルプス三県(岐阜、長野、富山)共同制作 外国人登山者向け安全登山啓発動画を公開しました」
- 富山県「北アルプス三県(岐阜・長野・富山)共同で外国人登山者向け安全登山啓発動画を作成しました!」
- 秋田魁新報(共同通信)「山岳遭難、昨年は最多3623人 訪日外国人は246人」
- テレビ信州「増加する外国人の山岳遭難を防げ 全編英語の啓発動画も制作 北アルプスまたぐ3つの県が新たな取り組み」
- 山と溪谷オンライン「岐阜・長野・富山の遭難対策担当課が初めて共同制作。外国人登山者に向けた「北アルプス安全登山啓発動画」を発表!」
- 日本政府観光局(JNTO)「訪日外客数(2025年12月推計値)」
- 長野県「長野県登山安全条例」
- 涸沢ヒュッテ「宿泊のご案内」